自分の魂の欠片はこの人が持っているのだろう。出会う前から、そうだったろう。
山崎は目を細めて、目の前の光景をじっと見つめた。焼き付けるように強く見つめた。
アスファルトに血が飛び散っていて、それを、パトカーのサイレンが赤く照らしている。ざわざわと空気がざわめいている。生きている気配と、死んでいる澱みがない交ぜだ。
山崎は力を抜いて壁に体重を預けたまま、目を見開いてそれを見ている。
指示が行き交い、人が右に左に忙しなく動く。
その中心で、誰よりも鋭い声で、誰よりも的確に指示を飛ばす人を。
真選組副長、土方十四郎。
その音の響きが、山崎はとても好きだった。
隊に入る前から、憧れてさえいた。黒い、重たそうな制服を颯爽と着こなし、腰に刺した刀に軽く腕をかけ、煙草を吹かしている姿には、強い羨望を感じていた。
整った顔立ち。均整の取れた立ち姿。鋭く冷たい視線。
矢継ぎ早に指示を飛ばしていた土方が、ひと段落ついたのかふっと肩の力を抜いたのが分かった。何かを探すように視線を巡らせ、山崎の姿を見つけると近づいてくる。少し、足早だ。
立ち上がろうと腰を浮かしかければ、視線だけで、そのままでいいと言われた。軽く頭を下げて座りなおす。壁に凭れたままでいるわけにはいかないので、背筋は軽く伸ばした。
視線を合わせるように土方が地面に膝をつき、山崎の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
まさかこんな優しい声を出す人だとは、かつては思いもしなかった。
誰に対しても気高く冷たい印象なのだろうと、そう勝手に思っていた。
実際は、どうだ。年下の沖田にいじめられ声を荒げ、近藤に振り回され血管を浮き上がらせ、意外な一面を数多く持っている。
その中でも、これが一級品だ。
愛おしいものに対するような優しい声音。こんな声音が、鬼と呼ばれる人から出るとは、想像だってしたことなかった。
「大丈夫ですよ。見た目より浅いんで」
心配しているのだろう土方を安心させるように緩く笑い、山崎は自ら隊服を捲り上げる。
包帯できつく縛られた脇腹に、薄く血が滲んでいた。
「ドジ」
呆れた、というような風に言いながら、土方が伸ばす指の動きがそろりとしている。
傷口部分に躊躇うように触れ、馬鹿、と、再び呆れたような声が聞こえた。
すいません、と笑う山崎を見て、土方は眉を寄せる。
ああこんな顔も、と、山崎は殊勝に笑いを引っ込めながら、心の中で大事に思った。
こんな顔もするのだ。知らなかった。今は沢山、知っている。
「こんな傷で休ませてもらうわけにはいかないんですが」
隊服を戻しながら山崎が言えば、土方が少し怒ったような顔をした。
ざわざわと人がざわめいている方向に目を向け、吐く息が白い。
「じき、終わるさ。怪我人にうろうろされたら迷惑だろ」
上が優秀すぎると、下が育たねェよ。
そう言って、向ける視線の先には、山崎の部下にあたる監察が数人いる。
現場検分と遺体の調査をしているのだ。監察の仕事で、それはつまり、山崎の仕事で、副長である土方のためにある仕事だった。
「……彼らが、」
零すように口に出してから、慌てて山崎は唇を結ぶ。
何だ、と聞き返す土方に、何でもないです、と首を振った。
彼らが優秀に育ったら俺でなく彼らを使いますか、とは。
あまりにも、あまりな言葉だと思ったからだ。
憧れていた。ずっと好きだった。そばにいたいと思っていた。
最初は純粋に、役に立ちたいと思った。褒められれば嬉しくて、そのために仕事に励んだ。
それが。
こんなに不純になったのは、いつからだろう。
――――――……
――――――――――――………
衣擦れの音がやけに響く。
土方の手が躊躇いがちに、それでもしっかりと包帯に触れた。軽く押さえられれば、鋭い痛みが全身に走る。体を硬直させた山崎を見下ろして、土方は手の力を抜いた。痛みを逃がすために開けた口を塞がれて、それがまるで当たり前であるかのように舌を差し込まれる。
土方の首に腕を回して、山崎は自分の舌を差し出した。絡められ、吸われ、歯を立てられ、舐められ、体中が痺れ体温が上がっていくのを甘受する。
こんな顔をするだなんて、想像だってしたことなかった。
熱に浮かされたような目で自分を見下ろす土方を、山崎はうっとりと見上げる。少し、血の匂いがする。自分の血なのか、それとも、土方が浴びていた誰かの返り血なのかは、分からなかった。
鉄の匂い。鋭いそれに、こんなにも興奮するということだって、ちっとも。
緩く閉じた山崎の瞼に、土方の唇が落ちる。再び傷口に触れられて、山崎の体がびくりと跳ねた。緩々と撫でられ、背筋が粟立つ。
「あ、…ぁ…」
「気持ちいい?」
低く笑う声を、耳の中に直接吹き込まれた。
ぞくりと痺れて身じろぐ体を押さえつけるように土方が体重をかける。
「俺以外に、傷つけられてんじゃねェよ」
少し、苛立った声。そのまま耳たぶに歯を立てられて、山崎は嬌声を飲み込む。
唇に歯を立てたことを見咎められて、ぐっと顎を指で押さえられた。親指で唇を拭うような仕草をして、歯形のついた唇を土方があやす。
「声、出せ」
「ま、だ……みんな、起きてるでしょ、」
あんな事件の後だから、起きている人数も少なくないだろう。
いつ誰がやって来るとも知れない。声や物音に気づいて、不審に思われるかも知れない。
土方の指から逃れるように山崎が緩く首を振れば、土方が不機嫌さを隠そうともせず舌打ちをした。
そのまま、山崎の首筋に歯を立てる。
吸い上げるのではなく、そのまま、噛み千切るような勢いで強く噛み付かれ、山崎の首筋に薄く血が滲んだ。
「跡を、」
包帯の上から傷口を優しく撫でながら、土方が血を舐める。
「残すなよ」
自分の付けた傷跡から血を吸い出すように、土方が舌を這わせてきつく吸う。死の恐怖と、官能が、山崎の中で混ざり合ってどろどろになっていく。
そのまま執拗に首筋に跡を残していく土方の髪に指を絡めれば、顔を上げた土方が少し笑う。目が、情欲に濡れている。
この人をこんなにしたのは俺だ、と山崎は目を閉じて、薄く微笑んだ。
こんな目をさせて、体の形を変えさせて、執拗に触れさせているのは、紛れもなく、自分だ。せめて今だけでも、この人は自分のものだ。
「ふくちょ……口、吸って」
頬を撫で、吐息に混ぜてねだれば、求めているものは焦らされることなく与えられる。
唾液を執拗に絡めるようにして土方の舌が動くのを、山崎は懸命に迎える。
零すように流し込まれる唾液を飲み干す山崎の耳を、土方が塞ぐようにした。顔を固定するよう、きつく力を込められる。
「……ふ、……ん、ぁ、」
耳を押さえられ、体内の音が逃げていかない。頭の中で響く水音に、脳みそが破壊されそうだ。
閉じていた目を薄く開けて、滲む視界で土方の姿を捉える。唇を少し離した土方は、いとしくてたまらない、とでも言いたそうな顔で、山崎を見下ろしている。
唇が動いた。音は聞こえない。もとより、声に出していないのかもしれない。
『俺のだ、お前は』
そんなことを、言わないでください、と、言いたい山崎の言葉は、きっと本心ではない。
そんなことを言わないで。逃げられなくなってしまう。
そんなことを言わないで。もっと好きになってしまう。
名前が好き、姿が好き、煙草を燻らす仕草が好き、声が好き、冷たい目が好き、それが熱に染まるところが好き、子供のような我侭を言うところが好き、人を殺せる冷たさが好き、人を生かせる優しさが好き。
自分のことをこんなに、好きでいてくれるところが、たまらなく好きで、
「副長、好き……すき、です」
声が、外に出ていかないので、頭の中に響くそれが、山崎の頭をゆっくりと痺れさせていく。
飽きずに再びくちづけられて、閉じた瞼に押し出された涙がすい、と流れた。
こんなに、何もかもが好きで、壊れてしまう。
魂の欠片をきっと、生まれるより以前から、奪われたに違いなのだ。自分の一部はきっと、この人の手の中にあるのだ。そうに違いない。
そうでなければおかしいじゃないか。
何もかもいらないと本気で思うほど、こんなに泣くほど好きだなんて。