ぬるりとした感触ばかりがしている。舌のざらつきはもうあまり分からない。というか、同じ行為ばかりを繰り返させているので感覚が鈍くなっている。もしやこれはタチの悪い夢じゃないだろうかという気持ちでもある。
自分の脇腹に顔を伏せて、真新しい傷から滲み続ける血を懸命に舐め取る山崎の髪に、土方は優しく指を潜り込ませた。優しく乱してやれば、ぴちゃぴちゃという水音の合間に色付いた声が漏れる。そのままぐ、と手に力を込めてやれば、土方の足の上に置かれていた山崎の手がびくっと動いて、そのまま足に爪を立てた。けれどすぐに、慌てたように力を抜く。
山崎の舌に舐め取られ嚥下され吸収されていく血は、きっと毒だろう。煙草とマヨネーズと……およそ体に良いものを摂取しているとは思えない。きっとドロドロで医者に見せたら確実に眉を顰められそうな血液だろう。体を壊してすぐに死ねそうな、そんな毒を、流れ出すまま山崎が舐め取っていく。
きちんと治療をしろと迫る山崎を、舐めときゃ治ると突っぱねた後、気づけばこんなことになっていた。どうせならおめえが舐めろ、と言ったような、気がする。かなり前のことに思えるが、山崎がそれに従い顔を伏せてからどれだけの時間が経ったのか、土方にはよく分からなかった。もしかしたら、五分と経っていないのかもしれない。感覚がひどく曖昧だ。舐められている間ずっと、血が止まらない。全部流れ出してしまう気がする。熱はあるが痛みはもうあまり感じない。刀傷が舐めて治るものか、と思うが、このまま舐め続けられていれば治るような、気もした。治らなくても、やめろとなかなか言い出せなかった。
柔らかく山崎の髪を梳く。体を屈めて顔を伏せ舌を使って土方から生み出された体液を舐める、それは、性交の時の仕草とよく似ていた。熱さも似ていた。土方のやけに優しい指の動きも、多分まったく同じだろう。土方の血液を山崎が舐め取って、山崎の唾液が土方の傷口へ入り込む。体液交換。やっていることは同じじゃないか。
自分の血が毒なら、それでこいつが死ねばいいな。思いながら髪を緩く指先で弄んでいれば、不意に山崎が顔を上げた。
唇が赤く染まっている。紅を引いたように見える。生肉を喰らった獣のようにも見える。
「明後日は、朝からですか?」
唐突に山崎が言った。このどこか不思議な空間にはまったくそぐわない、普通の声音だった。
「何が?」
「何がって……」
忘れてるんですか、というような目を、山崎はした。呆れたようにわざとらしく溜息をついてみせる。
「ミツバ殿のお墓参り」
はっきりとした発音で、山崎が言った。血で汚れた唇を、同じく血で汚れた舌で舐める。指で唇に触れてみて、付着した血に山崎がちょっと目を細めた。舐め取るように口に含む、その仕草がやはり性交のときに見せるそれと似ているのである。
「……ああ、そうだったな」
言われて思い出しました、というような土方の様子に、山崎が少しゆっくりと瞬きをしたが、それがどういう意味なのか土方には分からなかった。投げ出したままの上着を手繰り寄せ、内ポケットから煙草を取り出す。銜えて火を付け煙を深く吸い込めば、靄がかかっていた思考が少しすっきりした気がした。灯りもつけずに自分は、自分たちは一体何をやっているんだ、と冷静になる。
そうだ、墓参りに行かなければならない。墓を綺麗にして声をかけて顔を声を思い出して感傷に浸らなければ、ならない。愛していたんだ。何よりも大切だったんだ。どこかで幸せになって欲しかったのにそんな小さな願い一つ叶わなかった。自分では幸せにしてやることなど最初からできはしなかった。墓参りに行って、そういうことを一つずつ拾い出さなければ。普段思い出さないようにしている分、明後日は、思う存分に思い出すことが許される日だ。
正気に戻った土方をじっと見て、山崎は土方から体を離した。唇に付いた血をぐい、と着物の袖で拭う。
「じゃあ、今晩もはやく寝てください」
子供をあやすような声で、言った。明後日の分も明日、いっぱい仕事しなけりゃならないんでしょう。そう言って立ち上がろうとするので、土方は思わずその腕を掴む。痛いのか顔を顰めた山崎は、けれど文句を言わずにもう一度座りなおした。口の端に伸びた血の色が妙に艶かしく見えるのは、土方が正気に戻っていないせいだろうか?
「何勝手に決めてんだよ」
あからさまに怒りの滲む声に、山崎がちょっと目を伏せた。怯えているのか呆れているのか判然としない。
「誰がやめていいっつった。舐めろ」
土方の言葉に山崎は一度震える睫を持ち上げて、土方の足の間に体を置いた。そのまま、文句のひとつも言わずに顔を伏せる。先ほどと同じように舌を伸ばして、ぴちゃ、と音を立て始めた。その口角が少し上がっていたのがぞっとするほど美しかったので、見間違えではないといいな、と土方は思った。
山崎の舌が時折硬くなり、傷を抉るようにする。頭に掌を乗せて軽く力を加えてやる。分かっていて擬似的に楽しんでいるのだと、お互い理解していた。血と精液と、口に含ませるならどちらがマシなんだろうな、と土方は、山崎の髪で遊びながら考える。自分だったらどちらがいいかと考えて、どちらでも同じか、と思い直した。生臭くべたべたとしていて苦く不味い。命の味だろう。生きていくための液体と、死んでいく液体だ。
こうして傷を舐めさせても、傷が癒えないことは分かりきっている。大して快感を呼び起こすような行為でもない。では、何故そうさせるのかと言えば、きっと、人としての尊厳を奪うためだったろう。意味のないことを命じて繰り返させる。本来口にするべきでないものを口に含ませて満足している。体を屈めて一心に傷口を舐める山崎に対して覚えるのは征服感だ。コイツは俺のものなのだとだれかれ構わず見せ付けたくなる。一言命じれば誰に斬られたとも分からないどんな病気が移るとも分からない傷口を平気で舐めることができるんですよこの狗は。そう言って触れ回りたい。山崎退はそういう人間なのである、ということを叫びたい。
そうやって扱うことによって、本当の狗のようになるんじゃないかと思っているのだ。自分以外に懐かなくなればいいと思っている。理不尽な命令を大人しく聞く姿を見て安堵をしているのだ。おかしいのは分かっている。どうしようもない。近くに転がっていた灰皿に手を伸ばして灰を落とした。この、伏せている白い肌に、この灰を落とせばどうなるだろうな、と考える。短くなっていく煙草を押し付けたい衝動にかられ、どうしようか迷っているうちに、再び山崎が顔を上げた。
もう、血はあまり出ていないのかも知れない。山崎の口の周りは血ではなく、透明な唾液で汚れている。
「俺が死んでも、お墓参りをしてくれますか?」
静かな声で山崎が言った。こういう場に相応しい、暗く沈んだ声だった。
答えないまま、汚れた口周りを袖で乱暴に拭ってやる。山崎は少し嬉しそうな顔をした。
「というか、俺は家族がないので、墓はどうなるんでしょうね。無縁仏?」
少し明るい声で山崎が言う。わざとらしく考え込む振りをしてみせて、何か思いついたようにちょっと顔をあげた。。
「土方さんのお墓に一緒に入れてくださいよ。あの世でもあんたを守ったげます」
こんな傷をむざむざ許しておいて守る? 馬鹿にしている。
別に山崎も本気ではないのだろう、下を向いて小さく笑っている。どういう類の冗談だ。当て付け? 何に対して? 何のために?
下を向いたままの山崎の髪を乱暴に掴んで、土方は山崎の顔をぐいと上向かせた。
引っ張り上げられ開いた口に舌を無理矢理捻じ込む。煙草の味が苦いのか、掴まれた髪が痛いのか、それとも単に息苦しいのか、山崎の眉間に皺が寄った。土方はそれに構わず、山崎の舌を絡めて引っ張り出し、それに軽く歯を立てる。う、と小さく山崎が呻いたので、やわやわと歯で噛んで刺激を与えた。唇の隙間から唾液が零れ落ち、山崎の顎を伝って落ちる。
「……このまま噛めば、死ぬな」
唇を少し離してこの上なく楽しそうに言った土方に、山崎がうっすらと目を開けた。近過ぎて焦点が合わない。
「殺さんでくださいよ」
少なくとも今日はまだ。言って山崎は、土方の頬を指先だけで緩く撫でた。
「今日は?」
「明日も仕事が山ほどあるんですよ」
笑いは滲まなかった。冗談のような声音でもなかった。至極真剣な、否、至極当たり前のような口調だった。明日以降なら殺していいのかとは聞けなかった。何となく、山崎はいいと答える気がしたからだ。
柔く唇を噛んで、唾液の零れる跡を辿って顎を噛んで、そのまま首を、胸を、腕を、掌を、指を、順に軽く噛んでいく。歯を立てるたびに山崎の体が小さく震えるような動きをする。薄く開いた唇から小さく声が漏れている。
口の中が血の味だが、それは自分の血だろう。山崎の口の中に、舌の上に残っていた、自分の血の味だ。毒の味。
土方は山崎の腕を掴み、肉の柔らかそうな部分に唇を寄せ、加減をせずに歯を立てた。皮膚が破れ、血が滲む。滲んだそれを舌で強く押して舐め取れば、そこで初めて山崎が慌てたような素振りを見せた。軽くもがいて逃げようとするので、再度強く歯を立ててやる。
「……っ、俺の、血は、毒ですよ」
甘い吐息を混ぜながら、行為の最中のように切れ切れと山崎が言った。
「毒に、慣れるためって、ときどき毒飲んでんの、知ってんでしょう」
ああ、知ってるよ。だって自分がそうさせている。
だからやめて、という山崎の言葉を聞かず、土方は山崎の血を舐め取っていく。
ねえやめてください、ともう一度言って、山崎が土方の髪を軽く引っ張った。顔を上げて目を覗き込む。浮かんでいるのは拒絶ではなく不安。土方は少し笑って、血を舌の上に乗せたまま山崎の唇にくちづけた。
血の味を混ぜていく。どちらも毒だろう。過ぎれば死に至る。
「……安心しろ、おめえに墓はいらねえから」
「あ、ひどい」
「そうじゃねえよ」
「じゃあどうして?」
口付けの合間に囁きあう。口の中に広がる血の味を飲み込む。もう、どちらがどちらの血か、分からない。
「お前が死んだら俺がお前を喰らって、俺の血肉にしてやる。俺が死ぬとき、お前も一緒に死ねばいい」
真面目な顔で真面目に囁いて触れるだけの口付けを交わした。少し誓いのような神聖さがあるような気がしたが、お互いの唇に付着した血がどこまでも苦かったので、やはりどこかおかしいのだろう。
山崎は嬉しそうに目を細めている。土方の唇に付いた血を、舌を伸ばして舐め取る。
「ひどいですね」
「ひどいか」
「狂ってますね」
「そうか」
「好きですよ」
「知ってる」
ああなんだおかしいのは自分だけではなかったのだと土方はどこか安心している。当たり前のように狂っている山崎の方が自分よりずっと溺れているのだと気づいてたまらない気分になる。どこまで壊せばいいだろうか。もういいか、それとも、もう少し? どこまで行けば手に入るだろう。
「明後日の夜は俺を抱いてくださいね」
言って、山崎はうっとりと笑った。