親の顔も故郷も名前も何もかも。真っ暗な闇の中だ。覚えてたとしても、何の意味もありゃしない。肩と腕の痛みと、吐き気がするほどの血の匂い。殺しちゃった、という恐れだって、遠い遠い、闇の中だ。
そんなもの、生まれる前の記憶なのだ。
「起きたか」
低い、耳に心地よい声をかけられて、山崎は薄く開けた目をもう一度閉じた。
そのまま再び眠り込むようにすれば、頬にかかった髪を払われる。緩く、肌の上を滑る指が温かい。
珍しく、甘い。優しい。頬に唇を押し当てられ、小さな笑いが山崎の唇から零れた。
「おはようございます、晋助さん」
ゆっくりと目を開ければ、こちらを覗き込んでいた視線とかち合う。もう一度軽く目を閉じれば、触れるだけのキスがゆっくりと落ちた。山崎は唇の端を引き上げる。
「今日は、いいのか」
煙管を銜え、緩く煙を吐き出しながら問う高杉に、山崎は声なく笑ってみせる。
横たわっていたままの体を起こし、高杉の膝に擦り寄るようにして寝そべった。猫みてえだな、と笑い声が落ちて、髪を優しく梳かれる。
「誕生日休暇、というものがあります」
「ほう」
「よほどのことがなければ、誕生日と、希望すればその前後一日ずつ、休みがもらえるのです。あんなところで寝起きしてるんだから、せめて誕生日くらいは好きに過ごしなさいよ、ということで」
「へえ」
高杉の腰に腕を回し、ぎゅっと抱きつくような素振りを見せた山崎の肩を、高杉の手が撫でる。
優しい。甘い。今日は珍しく、大事にされている感じがする。
機嫌がよいのかも知れない。山崎は高杉の腹に頭をぐりぐりと押し当てながら、小さく笑った。
「で、お前の誕生日は、今日か」
「はい」
「中途半端な時期だな」
高杉は膝の上の山崎から視線を逸らし、壁にかけられた暦を見る。
二月六日。さして特別なことは何もない、普通の日だ。
何故また、と問うように、緩く髪をかき混ぜてやる。露になった耳を擽るように指を滑らせる高杉に、山崎は軽く身を捩った。
抱きついていた腕をほどいた山崎は、そのまま仰向けになり高杉の顔を見上げるようにした。
甘えるように手を伸ばす。今日は何となく、許される気がしたからだ。
果たして高杉はそっと目を伏せ、山崎の唇に自分の唇を重ねてやった。
「……五年前」
離れていく唇をうっとりと目で追って、山崎がぽつりと呟く。
濡れた山崎の唇を指で拭ってやりながら、高杉は視線だけで続きを促した。
「……五年前の、今日です」
「何が?」
「俺が生まれたのが」
高杉の指が止まり、柔らかかかった瞳の光が怪訝そうな色を帯びた。
眠たそうにか、記憶を追うようにか、ゆっくりとした瞬きを繰り返す山崎の前髪を、高杉の手がやわく乱す。
「あなたが、俺を拾って、名前を付けてくれてから、もう五年も経ったんですねぇ……」
はやいなあ、と山崎が笑う。
すごいですね、と笑って、山崎の指が、高杉の長い前髪に伸びる。
「あの日、晋助さんが俺に名前をくれたから、俺は、あのときから、あなたのものになったんです。ね、俺が生まれた日。二月の六日。覚えてます?」
とろん、と閉じた山崎の瞼を、高杉の指が押さえた。
ぴくりぴくりと小さく動く皮膚の感触を高杉は黙ったままで楽しむ。
「お前は、俺のものなのか」
「そうですよ」
「勝手だな」
「覚えてますか?」
「……忘れたよ」
俺はねえずっと覚えてるし、さっき夢に見ましたよ、と山崎が言って、高杉の指をやんわりとどける。目を開いて高杉を見上げ、ひとつ笑ってから再び高杉の腰に手を回した。
甘えるように擦り寄る。きつく焚かれた香の香りを、肺いっぱいに吸い込むようにする。
「俺が、あなたの物でいることだけ、許してくださいね。大事にしてくれなくてもいいから、好きに使ってくれてもいいから、晋助さんのものでいさせてね。それを許してくれたら、俺はそれが、一等嬉しいです」
ぎゅ、と抱きつく山崎の腕を高杉が解くようにすれば、顔をあげた山崎は少し不満そうな顔をする。
そのまま膝の上から落とされて、ごん、と頭をぶつけたので、山崎は涙目で高杉を睨みつけた。
「ひどい。誕生日だって言ってるのに」
高杉は喉の奥で低く笑って、畳に仰向けになった山崎へ覆いかぶさる。
閉じ込めるように腕をつき、
「大事にしなくても、いいんだろう」
言った高杉に、山崎はすぐに嬉しそうな顔になって、高杉の首に腕を回した。
大事にしてくれなくたって、いいです。ひどくしてくれてもいいです。
俺はあの日に、あなたに名前と、そして居場所を、これ以上ないってくらいの贈り物を、頂いているのです。
「それを奪わないでくれたら、あとは、晋助さんが好きにしてください」
甘く囁くように、吐き出す息に混ぜてそう言って、山崎がそのまま目を閉じる。
微かに震える睫に唇を寄せる高杉の着物を山崎の指がきつく握り、
「好きです」
と、また、脈絡があるような、ないような、どうしようもない言葉を吐いて。
山崎は高杉をそれで絡め取っていることにも気づかずに、小さな声で、「あ。でも、おめでとうって言ってくれたら、もっと嬉しいです」と、子供のようにねだってみせた。