ざあああああああああああああああああ と。
隙間を埋め尽くすように絶え間なく、雨の音が聞こえている。
ぼんやりとしたまま山崎はごろん、と寝返りを打った。雨の音の狭間に、シーツが擦れる音がやけに高く響く。
隣で目を閉じている人の顔をじっと見つめて、山崎はぼやけた意識のまま、そっと手を伸ばした。
左目を覆い隠すように巻かれている白い包帯に、指で軽く触れる。ざら、とした感触。黒い髪が結び目を隠してしまっているのだろうな、と思って、それを探り当て解いてしまいたい衝動に駆られた。
そのままゆっくりと包帯を辿るように指を這わす。耳の後ろまで手を伸ばしたとき、ぱしん、と音がするような勢いで手首を掴まれ、山崎の肩が大きく跳ねた。
「……なんだ、テメェか」
射抜くような光を持った右目が、山崎の姿を見とめ少しだけ和らぐ。
手首をきつく掴んでいた力を緩めて、指を絡めるように手を繋ぎ合わされた。
「高杉、」
名前を呼ぶ声が、やけに喉に引っかかってそれが少し気恥ずかしい。
さっと目を逸らした山崎の髪を、高杉が空いた手で優しく梳く。指に、髪を巻きつけて、解いて、それを楽しむように何度も。
「まだ、雨降ってんだろ」
「うん……」
「じゃ、寝てろ」
ざあああああああ、と。
絶え間なく雨の音が聞こえている。
その合間に響く、シーツの音や、高杉の息遣いや、鼓動の音が、いつも無音の中で聞くより鮮明に聞こえるのは何故だろう。
触れ合っている素足の感覚が恥ずかしく、居た堪れず、山崎はふるふると首を左右に振った。枕の上で少し長い髪がぱさぱさと音を立てる。
高杉は、乱れた山崎の髪をその耳にかけてやって、繋いだ手を一度強く握りなおした。
「考え事か?」
尋ねる、低い声が、落ち着いていて柔らかい。
甘やかされているようで、山崎の背中がぞくりと痺れる。
髪を梳いていた方の手が山崎の背中へ回り、抱き寄せるような動きで力が込められた。
逆らわず、高杉へと体を寄せれば、子供をあやすように背中をとんとんと叩かれる。
「……雨の音って」
ぽつりと呟く自分の声が、やけに響いて聞こえる。
繋がれて居ない方の手のやり場がなくて落ち着かない。両手ごと、縛り上げてくれればいい。
「雨が、地面に叩きつけられる音なのかな。それとも、雨が落ちる時、ああいう音がするのかな」
高杉の胸元に頭を押し付けるようにして、ぼそぼそと呟く山崎の言葉を最後まで聞き取って、高杉はふっと息を吐いた。あやすように叩いていた背を、今度は優しく上下に撫でる。
「どうでもいいだろ、くだらねェ」
突き放すようにする言葉が、それでもゆったりとした音だ。
くだらねェと言いながら、最後の最後まで、一音も聞き漏らすまいと、雨の中、耳を傾けてくれたくせに。
山崎は目を閉じて、高杉の腕の中に体を摺り寄せ、胸元に頬をつける。
「……うん、そうだね。どうでも、いいね」
降り出したときには、まだこんなひどい雨ではなかった。
傘なしでも、帰れるような雨だった。
どちらにしても、帰るだけなのだから、濡れてしまっても構わなかった。
帰れねェだろ、と引き止めたのは高杉だったが、それに頷いたのは山崎だ。帰れないわけがなかった。濡れるのが嫌なら、どこかで傘を買うことだってできた。
帰れない、と頷いて、抱きしめるよう伸ばされた腕を拒めなかった自分が、悪いとすれば全て悪いのだ。暖かな腕の中で、高杉の匂いに包まれながら、山崎はぼんやりと考える。
悪いとするなら、拒まなかった自分が、全て悪いのだ。
拒絶しようと思えばできたのに、事実、何度も高杉は、その隙を与えるように動きを止めたのに、そうしなかった自分が悪い。
触れ合っていただけの足を、絡め合わせるように動かした。
背中を撫でていた高杉の手が少し止まって、握られたままの手に力が籠る。
このまま逃げてしまえばいいのだろうか、全部捨てて。
出来もしないことを考えながら、山崎はそろりと顔を上げる。それに気づいてこちらを向いた高杉の視線が、優しくて当惑する。
もっと、蔑むような目を、してくれればよかった。
甘やかされて、それだけで、簡単に手に落ちるような自分を、馬鹿にしてくれればよかった。
執着する価値などないと、靡いた時点で両断してくれれば、よかった。
空いている手を伸ばして、先ほどと同じように白い包帯に触れる。ざらりとした感触。
熱っぽい目で自分を見下ろし汗を滴り落としながら抱く間も、外されなかった包帯。
結び目を探して動く山崎の手を、高杉は止めない。咎めない。静かな目で山崎を見つめて、空いている手で再びあやすように山崎の背中を叩くだけだ。
たまらない。どうしようもない。逃げ出したい。どこから? 何から? どこへ?
じりじりと心臓が焼かれていく。熱に喉が塞がれる。苦しい。
その焦燥感から逃げ出すように、山崎は手を伸ばして包帯を辿る。結び目に指が引っかかり、それをゆるく引っ張るようにした。片手ではほどけない。もどかしい。
けれど、繋いだ手を解いてしまいたくはない。
ほとんど泣きそうになりながら結び目に触れる山崎の手を、高杉の手がやんわりと止めた。
「ちょっと待ってろ」
言って、繋いでいた手がするりと解かれる。
あ、と惜しむような声が山崎の唇から零れるのを聞いて、高杉が目を細めた。少しな、と、宥めるように言って、そのままゆっくり体を起こす。
両手を頭の後ろに回し、高杉が解いた包帯が、山崎の体の上にするりと落とされた。
その動きを目で追う山崎の手が、再び高杉の手に握られる。
今度は上から覆いかぶさるようにそうされて、山崎の喉がこくりと上下に動いた。
包帯が隠していた場所には、引き攣れた傷跡が残っている。
この、傷跡の下に隠された目に、見つめられたかった。両目にしっかり自分を映して、閉じ込めて欲しかった。
思いながら、山崎は頭を持ち上げて、その傷に唇で触れる。
山崎の手を握る高杉の手に、きつく力が込められた。
許されている、という震えが、山崎の背に走る。
許されている。傷を暴くこと。秘密を暴くこと。こうして触れること。それをさせてくれと強請ること。傍にいること、甘えること。
好きだと思うこと。
許されている。
他の誰も、山崎自身も許せないそれを、高杉だけが、世界で唯一許してくれている。
ざああああああ と。
雨の音が、絶え間なく響いている。
このまま降り続けば、世界は雨に飲まれてしまうのではないかと錯覚をする。
山崎が、高杉が、少し身じろぐたびに、ざわざわと、シーツが擦れる音がする。
「高杉」
名前を呼ぶ声が掠れているのは、本当は欲情しているからではなかった。泣くのを堪えて、喉を閉じているからだった。
けれど、勘違いされてもいいな、と思ったので、名前を呼んだ。
高杉は右目を僅かに伏せ、山崎の口元に唇を寄せる。頬にくちづけ、耳朶にくちづけ、「よかった」と囁いた。
「何が?」
焼け付くようような喉を痛みを、唾液を嚥下することで誤魔化す。
高杉は山崎の耳元にくちづけたまま、その先に行為を進めようとはしない。
「高杉?」
耳に、熱い吐息がかかる。
ゆっくりとした呼吸の音を、直接吹き込まれている錯覚に陥る。
ほとんど押さえつけられるようにされた体には、直接鼓動の音が響いているようだ。
生きている音がする。
近くで。
「あのまま帰せば、」
高杉は山崎の耳から唇を離し、それをそのまま山崎の目元へ寄せる。
「泣いたろう、お前」
言って、流れる涙を啜るような仕草を、高杉はした。
山崎の目尻も、頬も、乾いていた。
別に涙は零れてなど、いなかった。少しも滲んでいなかった。
「泣いてないよ」 小さく搾り出した声は、やはり掠れていた。
「泣かせねェよ」 答えた高杉の声は、山崎の心臓を凍らすほど、寂しそうな声だった。
ざあああああああああああああああああ と。
絶え間なく、絶え間なく、雨の音が響いている。
水滴が落ちて、擦れて、地面に叩きつけられて、流れて、世界を飲み込んでいく。
止まなければいい、と、思っている。
止まず、このまま、抱き合うようにしていれば、頬も濡れまい、と。
唇を触れ合わせながら、繰り返し、祈るように。