それは当然ながらまったくの嘘でありました。彼がそれを信じるとも思えませんでした。
けれど、信じた振りくらいならばしてくれるかも知れないと思ったのです。
なので自分はその嘘を口にしました。
もう一度言います。彼が信じるとは思っていなかったのです。
それは結局、自分が想われているという傲慢な思いからだったのでしょうか。
……いいえ、違うでしょう。きっとその、逆なのです。
自分の言葉に彼が振り回されるなどとは思えなかった。
傷付くだなんてそんなこと、考えもしなかったのです。










 ばさりと音を立てて畳に散らばった幾枚かの紙を、山崎は呆然と見つめた。
 紙の束を放った張本人である高杉は、そんな山崎の様子を立ったまま見下ろす。
 座り込んで、散らかされた畳を見つめながらぴくりとも動かない山崎は、まるで絶望しているように見えた。
 願望だろうか。いや、まさか。
「……これ、」
「俺も直接関わってるわけじゃねえからな。はずれてても諦めろよ」
 山崎の指が恐る恐るといったように伸びて、散らばる紙を一枚手繰り寄せる。
 会合の日時、場所、集合するであろう人数、首謀者、計画の内容、その他。
 箇条書きで書き出されたそれを辿る山崎の指が震えている。
「最近はとんと減ってきてるな。真選組様の活躍が、よほど優秀なんだろう」
 嘲るように言えば、山崎が紙から指を離して、ゆっくりと高杉を仰ぎ見た。
 困惑した瞳だ。いや、警戒しているのか。
 喉を潤すように、唾を飲み込むような仕草。上下する喉仏に歯を立てたい衝動。
「これ……何」
「何って、見ればわかるだろう? お前が欲しがってるもんだよ」
「欲しがって……」
「攘夷浪士の情報を、俺から聞き出すために、こうして通って来てるんだろう?」
 健気だよなァ、と揶揄するように言って、高杉はその場にしゃがみ込んだ。
 山崎と視線の高さを合わせるようにして、優しく頬に触れてやる。
 山崎がびくりと体を揺らして身を引いた。逃げ出すような仕草に、思わず高杉の手が伸びる。手首をきつく掴めば、山崎の顔が顰められる。
「高杉、」
「生憎、鬼兵隊の情報は、渡してはやれねえが。これでもないより役に立つだろう」
「高杉、俺は、」
「だが」
 ぐい、と掴んだ手首を引き寄せる。ゆらりと自分の腕の中に倒れこんだ山崎を、今度は突き放すようにして強く押した。
 紙の散らばる畳の上に倒れこんだ山崎に圧し掛かるようにする。
 両手首を押さえつけ、足に膝を乗せ拘束してやれば、山崎の目に焦りが滲んだ。
「勿論、タダじゃあやれねえな」
「高杉!」
「安心しろよ。金を寄越せたあ言わねえ。ただちょっと」
 唇を寄せて、首筋を軽く舐めた。
 びくりと山崎の体が大げさに跳ねる。
「お前が、俺に抱かれてくれりゃあ、いいんだ。安いもんだろう?」










それは、言うならば、言い訳のようなものだったでしょう。
触れるために用意した、舞台のような、そんなものでした。
彼がそこで、一笑に付して取り合わなければ、それで仕方が無いとも思っていました。
舞台に上がってくれるのならば、嬉しい、と思っていました。
だって、そんな、馬鹿なことがあるわけがないのです。
こんなにも好きで、たまらなく愛しいと思っていて、自分は、それがとっくに彼にばれているものだと思っていました。
手放せない醜さを、逃げ切れない浅ましさを、見透かされているのだと思っていたのです。
いつもの戯言だと、受け取ってくれれば、まだよかった。
それか、もしくは、こんな想いは気持ちが悪いと蔑んでくれればよかったのです。










 舐め上げた首筋に今度は柔らかく歯を立てた。軽く噛み付き吸い上げれば、濡れた音が響く。山崎の腕が、足が、逃げ出すようにもがくが、上から体重をかけている高杉の方が幾分か有利だった。
 着物を着ても、洋服を着ても、見えてしまうだろう部分に一つ赤い痕を残す。
 走った痛みでそれに気づいた山崎が、喉を震わせた。
「や、めて……」
 弱々しい声に高杉は顔を上げる。
 怯えるような素振りならば、離してやろうと思った。
 嫌悪が浮かんでいたら、このまま永遠に逃がしてやろうと思った。
 なのに。
「……やめ、……高杉、こんなの、」
 ぼろぼろと、山崎の目から涙が零れている。
 塊になって落ちるそれは、山崎の耳を濡らして、畳に広がった髪を濡らしている。

 何でそんな。
 傷付いた目をしている?

 咄嗟に涙を拭おうと、手首を掴んでいた手を離した。
 途端、山崎がぱしんと高杉の腕を払って、そのまま逃げ出すように暴れ始める。
 高杉は舌打ちをして、忍ばせていた短刀を取り出した。気づいた山崎が顔を青くして、暴れていた動きを止める。
 口を使って鞘を外し、刃がむき出しになったそれを、山崎へ向けてゆっくりと下ろした。
 山崎が両目を大きく見開くので、また涙がそこから零れ落ちる。

 柄を、山崎の手に握らせた。
 掴んだままだった方の手首からも手を離してやる。
 困惑の表情を浮かべる山崎の顔の横に手をついて、高杉はそのまま身を屈ませる。呆けたように開いた山崎の唇に、そっと唇を触れさせた。
「……嫌ならそれで、俺を殺せよ」
 一度唇を離し囁いてから、今度は唇を噛み千切るようにくちづけた。
 きつく目を瞑った山崎の眦から、すう、と冷たい涙が零れ落ちる。

 震える山崎の手首が緩く動いて、その手から、短刀が滑り落ちた。










怖かったのかも、知れません。そう、怖かったのです。
彼が、もしかしたら、良からぬことを口走るような気がしていました。自惚れかも知れません。そんなことは、まったく無かったのかも知れません。
けれども、想像すれば、それが一番怖かった。
恐ろしかったのです。彼が、自分にそんな言葉を向けることが。
滑稽でしょう。笑うといい。自分では彼に隠しもせず気持ちを向けるくせに、彼からその気持ちを受け取ることはできないと、思っているのですから。
何故って?
受け取ってしまえば、手放せなく、なるでしょう。










 押し殺した声と荒い息遣いだけが、どれほどの時間だろうか、部屋に満ちて、山崎はその間中ずっと、傷付いたような目をしていた。
 傷付いた目をしながら、高杉の背に手を回し、されるがままに足を開き、指を舐め、名前を呼ぶように唇を戦慄かせた。
 何か言いたげに山崎が視線を向けるたびに、高杉はその唇を己のそれで塞いだ。
 声を出せないようにして、何も言えないようにして、そうして犯した。
 陵辱したのだ。奪うようにして、傷つけるようにした。

 そうでもしなければやりきれなかった。


「……これ、いらない」
 乱れた衣服を正した後で、山崎は畳に散らばった紙を丁寧に拾い上げ、それを勢いよく高杉に投げつけた。
 紙の端で高杉の頬が僅かに切れる。
「遠慮すんなよ。貰っとけば」
「いらない」
「タダでやられちゃお前だって割りに合わねえだろうが。ついでだと思ってもらって、」
「いらない」
 冷たい声でそう言って、山崎は立ち上がる。畳に落ちたままになっていた短刀を手にとってしばらく見つめた後、座ったままの高杉の前に立ち、刃を高杉へと向けた。
 表情を凍らせたまま、手を離す。すと、と真っ直ぐに落ちた短刀は、高杉の足と足の間に落ち、真っ直ぐに畳に刺さった。
「俺が、あんたを殺せないことを知っていて、こういうことをするんでしょう」
 平坦に紡がれていた声の、語尾が、少し震えて聞こえる。
「俺があんたに敵わないことを知っていて、殺せと、言うんでしょう。馬鹿にするのも大概にすればいい」
 高杉は弾かれるように顔を上げ、自分を見下ろす山崎を見つめた。
 冷たい表情の中、視線だけが揺れている。瞬きの回数が多い。
 涙が落ちた。真っ直ぐ、畳の上だ。
「俺があんたに抱かれた理由を、あんたは一生わからない。俺はあんたに陵辱されたんじゃない。あんたに抱かれてやったんだ」
 山崎の唇が、緩い弧を描く。目を細めて、冷たく笑う。
 そのまま山崎は体を屈め、高杉の肩に手をかけた。
 動けない高杉の顔を覗き込んで、笑みを消し、唇を近づける。

 触れ合わせるだけ。唇が重なった。
 山崎の涙が真っ直ぐ高杉の頬に落ちたので、まるで、高杉が泣いているように、見えただろう。

 少しも動くことが出来ない高杉から体を離して、山崎はぐい、と涙を拭った。
 そのまま踵を返して部屋を出て行ってしまう。たん、と襖の閉じる音だけ、やけに響いた。

 もう、二度と、ここには来ないだろう。
 それだけ分かった。
 もう二度と、触れることは叶わないだろう。
 それだけ、痛いくらいわかった。
 傷つけた、と、分かったけれど、追いかけることなんて、出来るわけがなかった。










嘘でも吐かなければ触れられないほど臆病な自分が、あんなに簡単に彼を傷つけられるだなんて、思いもしませんでした。少し、嬉しかったのも、事実です。ああ、自分のことで彼が振り回されてくれるのだ、と思ったら、少し嬉しかった。
もう一度、言います。信じるとは、思わなかったのです。あんな嘘を、言い訳を、彼が信じるとは、思えなかった。何故と言って、自分はひどく傲慢なので、自分の気持ちはとうに、彼にばれていると思っていたのです。上手く隠しとおすことなど、できていないと思っていたのです。
そんな自分があんなことを言っても、すぐにばれると思っていた。
それだけです。浅はかだったのです。まったく上手くいかなかった。滑稽です。馬鹿げている。
ならばいっそ殺してくれればよかったのだ。逃げるつもりは、ありませんでした。それで殺されるのならば、仕方が無いと思っていました。刀を渡したのは気まぐれでした。けれど、渡した瞬間覚悟もしました。
それを使わなかったのは彼です。彼だって、悪いのです。

追いかけたかった。抱きしめたかった。謝罪をして打ち明けて全部曝け出して彼が泣き止むのならそうしたかった。気持ちを伝えてもう一度抱き寄せたかった。塩辛くないくちづけだって欲しかったかもしれない。
できるわけが、ないでしょう。そんなことをしても、何にもならないでしょう。
自分は彼を傷つけて、彼はそれで傷付いて、それきり。そういうものなのです。それが何よりも正解だったのです。出会ったこと自体が間違っていたのですから、離れるのが、道理でしょう。
頬に傷が残った、これはよかった。
癒えるまでしばらくは、夢ではなかったと、思うことができるでしょう。

      (09.02.05) それでどうなるそんなにしてもそんなときにはそんなもの