夜が明けるまでにはまだ少し時間があるだろう。
寝返りを打ったときに頬に触れる布団の感触がいつもと違った。何でだっけ、と記憶をぼんやり探りながら足を折って体を軽く丸める。頭の下に枕がなかった。手を少し布団から出して探す。見つけたそれを引っ張って頭の下に置いた。ひんやりと冷えてしまった布が耳に気持ち良い。高さがいつもと違うのは何でだっけ。緩く記憶を手繰る。
(あああれか、なんか魔王が経験値を沢山くれたから俺はジョブチェンジできるようになったんだけど、何故か青魔道士しか選べなかったからとりあえず枕を食べて技を覚えようと思って……)
そうそう、そんな感じ、と納得しかけて、山崎は心の中で首を傾げた。枕を覚えて覚えられる技って何だ。ええと、そうじゃなくて、……なんだっけ。
半分以上夢の中で無意味な考えを巡らす山崎の耳に、す、と襖の開く音がした。
ふわりと冷たい空気が揺れる。誰だろう、と気配を探ろうとする山崎の髪を、近づいてきた誰かが撫ぜた。頬にかかって顔を隠すようにするそれをそっと避けて、頬に何か柔らかいものが触れる。
触れたそれはすぐに離れて、気配は少し離れた場所に止まった。
鼻腔を擽った香の香りに、山崎はゆっくりと目を開ける。
(ああ……)
そうだった。思い出した。
小さく縮こまるように体を丸めて、鼻から息を吸い込んだ。慣れた香の香りがする。布団にも枕にも、そして山崎自身にも染み付いてしまって、あまりにも当たり前のように体を包んでいるので、ちっとも気づかなかった。
眠った振りをして、寝返りを打ち体の向きを変えた。
ばれないように薄く目を開ければ、窓枠に肘をゆるくかけた高杉が、窓の外を眺めているのが見える。
月明かりがその顔をほの白く照らしている。表情は憂いを秘めている。きれいすぎてぞっとした。何かとてつもなく恐ろしいもののように、山崎には感じられた。
恐ろしいものには違いがないだろう。思想犯で殺人犯、すなわち彼はテロリストで、第一級の指名手配者だ。捕縛に際する条件はデッドオアアライブ。そして山崎はと言えば、そういう危険人物を取り締まることを主とした組織の諜報部員である。
これ以上恐ろしいものは、ちょっと類がないだろうな。
まだどこかぼんやりした思考の中で山崎は小さく笑って、再び緩く目を閉じた。
美しい犯罪者の憂う様よりも、そんな犯罪者の香りにくるまれてまるでそれが日常であるかのように深く眠れる自分のありようが、何より恐ろしい。
眠っているところを近づかれても少しも反応しない自分の危機意識。それどころか、この部屋に入った時点で刀は遠くに投げ置かれている。
何しに来てるの? 抱かれに来てるんだよ。
何のためにそうするの? 好きだからだよ。
好きで好きで仕方がなくて他にやりようを知らないからこうしているのだ。
だって、好き合っている者同士なんだから、別に不自然なことじゃないでしょう。そんな簡単な言葉で、山崎は自分の全てを誤魔化している。
(裏切り? 不忠? 職務放棄? ……違うな。だって俺は、殺せと言われれば、この人のことを殺すだろう)
誰も言わないから殺さないでいるだけだ。
誰も気づかないようにと祈り続けているだけだった。
山崎が次に目を開けたときには、高杉の腕の中だった。
砂糖の甘さとは違う、深く濃い甘い香りに包まれている。山崎を抱きしめるように回されている手が、時々山崎の髪を撫で、襟足を指で梳くような動きをした。
「三千世界の……」
低い、歌うような声が耳に流れ込んでくる。
「鴉を殺し、」
小さく響く声が心地よくて、山崎は高杉の胸に小さく擦り寄った。気づいた高杉が山崎の髪を撫でていた手を止め、自分の胸元を覗き込む。
「起こしたか」
「ううん、勝手に起きた」
「そうか」
「うん」
額を擦り付けるようにすれば、高杉が浮かせていた手を山崎の背中に回し、腕に柔らかく力を込める。深い香りがより一層香って、山崎はほう、と息を吐いた。香りに血が侵されていくような感覚。足の先まで染み込んでいくようだ。
「さっきの……」
「ん?」
「歌、なに?」
自分の口から出る音がぞっとするほど甘たるいことに山崎は少し体を震わせる。
甘えてねだるような響きだ。睦言の響きを持っている。今、この場、この状況にこれほど相応しい声音はないだろうと思うのに、これほど場違いな声音もない、とどこがで思う。
「ああ。……三千世界の」
鴉を殺し、と先ほどと同じように歌った高杉は、そこで不自然に口を噤んだ。
何、と山崎がそっと顔を上げれば、真っ直ぐに山崎を見つめている視線とかち合う。
「……何?」
「次は、……いや」
高杉の指が優しい動きで山崎の髪を梳き、首筋を軽く擽る。
「……次来たときに、歌ってやるよ」
山崎を見つめていた視線がふっと和らぐ。細められた右目の優しさに促されるように目を閉じた。山崎の唇にぬくもりが触れる。くちづけは柔らかく優しく触れるだけなのに、自分を抱きしめる腕の強さが少し増したことに気づいて、山崎は少し、泣きそうになった。
次はいつ来るか、と高杉は聞けない。次にいつ来る、と山崎は言えない。
いつまでここに、と山崎は聞けない。今度はどこに、と高杉は言えない。
次に顔を合わせたときに歌を聞かせてもらえるのか、山崎には少しも分からないし、高杉だってそんな次を信じてはいないだろう。
そうなればいいな、と思っているだけだ。好き合っているのだから当然だ。
そうならないかも知れないな、と覚悟をしているだけだ。好き合ってしまったときから仕方がないことだった。
軽く触れては離れるくちづけばかりを繰り返し、高杉が山崎を抱きしめていた腕から力を抜く。誤魔化すように髪を撫でられるので、山崎は高杉の着物を指で軽く掴んだ。
「もっと、」
ねだるように言う。甘たるい声を出す。血に溶けた香の香りがこんな声を出させているのだ、と山崎は奥歯を噛み締める。
髪に触れていた高杉の指が少し迷うような動きをして、山崎の頬をすい、と撫でた。小さく肩を揺らす山崎の唇にそのまま指を当て、
「もう寝ろ」
と苦い声を出す。
「夜明け前には、起こしてやる」
言って、唇が山崎の額に落ちる。瞼を指で軽く押さえられ、山崎はそのまま目を閉じた。
腕に抱かれているので枕はどこかへ行ってしまっている。頬に触れる布団の感触がいつもと違うはずなのに心地良い。甘く深い毒のような香りに抱かれて、山崎はゆるゆると眠りの淵に落ちていく。
このまま抱きしめていてください、という甘えは、言葉になったかどうか分からない。
山崎の首に触れ、一瞬力を込めるように動いた手の動きが、山崎の夢の中のことなのか、それとも本当のことなのかも分からない。
次に会ったら殺していいよ、とは、起きていたって言えなかった。
次があるのかどうかも、山崎には約束できないからだ。
夜が明けるまでには、まだ少し時間があるだろう。
鳥が鳴かねば明けない夜なら、鳥の声など聞こえぬように耳を塞いでいたかった。