「あれはなかなか可愛い」
杯を傾け酒を飲み干しながら、万斉が楽しそうに笑った。
「あァ?」
「ただ、ちょっとばかり躾が行き届いていないところがあるかも知れぬな」
クク、と低く笑った万斉は、首元に出来た真新しい刀傷を高杉に晒して見せた。
高杉の眉がぴくりと跳ねる。
「おめえか、アイツの傷は」
「傷?」
「唇切って泣いて帰ってくるから、どこの犬に吠えられたのかと思えば」
お前かよ、と呆れたように溜息を吐いて、高杉はぐいと杯を空けた。手酌で注ぎ足しながら、軽く万斉を睨みつけるようにする。酒の入って少し淀んでいるその目が一瞬本気の殺気を放ったのを見て、万斉は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。心地よい緊張感だ。
「拙者は軽くちょっかいを出しただけでござる。突っかかってきたのはあちらだ」
「またロクでもねえことを言ったんだろう」
「鬼兵隊幹部に女が入った、と、それだけ教えたのでござるが、」
ロクでもないことだったか、と万斉はわざとからかうように軽い笑い声を上げてみせる。さていよいよ斬られるか、と視線を向ければ、しかし予想に反して高杉は杯に目を落とし何か考え込むようにしていた。万斉は軽く目を瞠る。
聞こえる音色にまとまりがない。不安と戸惑いと後悔。高杉の持ち物が高杉のことを一途に思っていることを教えただけなのに、少しも喜びの色が滲まない。
浮かべていた笑みを消して、万斉は小さく肩を竦めた。
「しかし、なかなか可愛いものでござるな。ああまで自分に懐いていれば、手放すのも惜しかろう」
「さあな」
「拙者もあれほどむき出しの気持ちを向けられてみたいものだ」
あの目で刀を投げられると心地よくて避ける気もなくす。
乾き物に手を伸ばしながら軽い口調で言う万斉を、今度は高杉の視線が射抜いた。
音が戻る。苛立ち、殺意、深い悲しみ、後悔。
それでこそ高杉晋助だ。殺されるかも知れないというギリギリの感覚を楽しみながら、万斉は口の端を上げる。なかなかどうして、極限の命のやり取りは楽しくて仕方がない。
だが今は酔ってもいるし、本気を出されたら勝てるだろうか、と計算をする万斉の予想に反して、高杉は杯を放り出し立ち上がった。
畳に転がった杯から、残っていた微量の酒が零れる。
「――――――そんなに欲しいならくれてやるさ」
「寝るのか」
「ああ」
片付けとけ、とそれだけ残して、高杉は部屋を出て行く。
タン、と音を響かせて閉まった襖をしばらく見つめて、万斉はおかしそうに笑い出した。
「あんな顔をして、よくそんな嘘が吐けるものだ……」
これはなかなか本気でござろう。怒れもせぬほど好きだとは。
「……鬼兵隊総督も、ただの子犬一匹に、情けないことだ」
残った酒を注ぎながら、万斉は鼻歌を歌い、首に出来た傷跡を楽しそうに一撫でした。
+++
口の端に出来た傷を軽く指で押さえるようにすれば、閉じていた瞼がぴくりと動く。
そのままぐっと力を入れれば眉が寄り、軽くうめき声を上げて山崎が目を覚ました。
「……晋助さん……?」
「起きたか」
起こしたのは自分の癖に、白々しく言う高杉を眠たそうな目で見上げ、山崎は少し笑った。傷を擦るように指を動かせば、痛そうに小さく声を漏らす。
「万斉とやりあったそうだな」
「……あいつが俺を嫌いなんです。俺の腹の立つことばかり言う」
「あまり勝手なことをするんじゃねえ」
「すいません」
「また子のことを聞いたのか」
「…………」
少し眉を寄せた山崎は、何のことですか、と小さく言って、傷口を押さえていた高杉の手を払いのけた。そのまま上掛けに包まるようにして顔を隠してしまう。
今まであまり見たことのない反抗に、高杉は驚き、次いで笑った。
低い笑い声が聞こえたのか、山崎が嫌そうに顔を出す。
「……なんですか」
いや、と誤魔化し、白い敷布の上に散らばる髪を撫でた。それだけですぐに機嫌良さそうに笑う山崎に、高杉は目を細める。ぐしゃぐしゃと髪を乱し、そのまま軽く口付けた。当たり前のようにそれを受ける山崎の姿を、高杉は薄く目を開けて見つめる。
これが可愛く見えるのなら、それは万斉がおかしいのだろう。
ちっとも可愛くない、こんなもの。
「主人の命令なしで牙剥くような出来損ないはいらねェよ」
唇を啄ばみながら言えば、薄っすら目を開けた山崎が、高杉に両腕を伸ばす。そのまま高杉の首に腕を絡めて、啄ばまれ濡れた唇で、すいません、と謝罪をした。
「そんなに万斉が嫌いか」
上掛けを剥ぎ、着物の袷から手を滑り込ませれば山崎の体が軽く跳ねる。
首筋に舌を這わせながら問う高杉に、山崎は小さく笑った。
俺はね、と甘えたような口を利く。
「他の誰かを嫌いなんじゃなくて、晋助さんが、好きなのです」
上気した頬と濡れた唇でそんなことを言って、その指が高杉の髪に滑り込んだ。柔く梳いて指の隙間からすべり落とす。包帯を撫でられて高杉は少し体を強張らせる。
「だから、俺以外で晋助さんのことを好きな人は、みんな嫌いです」
死んじゃえばいいのに。
睦言のような甘さでそう言って、山崎は高杉の唇に自分からくちづけた。
「俺が一番そばにいたいのに。誰より長くそばにいたいのに。離れたくないのに。どこにも行きたくないのに……」
夜が明けたら戻ります。
薄く笑んで山崎が言った。高杉の背に回していた腕をほどいて、ぽす、と敷布に落とす。
眠るように目を閉じた山崎の目元に、かすかな傷跡が残っている。
万斉がつけた傷ではない。こちらへ戻って来た時から滲んでいた傷だ。
何を可愛いことがあるものか。
甘たるいことを言いながら主人以外に傷を残されて平気でいる。
戻ると言った、その言葉に、息が止まったのには気づかない振りをした。
何を可愛いことが、あるものか、こんなもの。
目元の傷に唇を付け、軽く吸ってやる。痛むのだろう、山崎の指が跳ねる。それを片手で押さえ込み、反対の手で唇の端に軽く爪を立てる。
「……ったい、」
「お前、」
「は、い」
「一週間、こっちに残れ」
「……晋助さん?」
「できねえか」
「ええと、あの、……休暇は一応、二日で出してるので、……どうだろう。連絡すれば可能かもわかりませんが、でも、」
どうして?
戸惑う山崎の吐息が首筋にかかって、高杉は山崎の手を握る指に力を込めた。
万斉の首に出来た刀傷を思い出す。一筋出来た赤いそれを、もしかしたら自分はうらやましいと思っているのか? まさか。
「できねえことがねえのなら、そうしろ。身内が病気で、だとか、嘘ならいくらでも吐けるだろう」
傷から唇を離して、山崎の顔を覗き込んだ。山崎は戸惑うような目で高杉を見上げている。
いいんですか、という声が少しばかり嬉しそうだったので、安心をした。
構わねえだろう、と言いながら、眩暈がする。酔っているのかも知れない。
無駄なことをすれば、ひとつ怪しまれる要素が増える。山崎を真選組に送り込んでいる意味がなくなる。こうして休暇中に会っている事だって、本当は、控えるべきかも知れないのに。
「……お前はいつも、傷ついてんな」
口の端の傷に飽きずに爪を立てながら、高杉は少し笑う。
いつも通りの低い笑い声に安心をしたのか、山崎がほっと息を吐いて、目を細め笑った。
「じゃあ、もっと抉って、晋助さんの傷にしてください」
言って、無防備に目を閉じてしまう。
両手両足を投げ出して、緩く高杉の与える刺激に耐えてみせる。
爪を立てれば、当たり前だが傷口から血が滲んだ。山崎が眉を寄せ痛そうな素振りを見せる。
この傷がついたときも痛かったろうか、熱かったろうか。
思いながら高杉は、傷口から指を離し、薄く滲んだ血を舐め取るように舌を伸ばした。
ぴちゃ、とわざと響かせた音に、山崎の肩が強張る。
「いてえか」
「……な、んか……ヘンな感じ、です……」
小さく体を振るわせた山崎の指が、縋るように高杉の着物を掴んだ。
ぴちゃぴちゃと血を舐め取るようにしながら、高杉は眉を寄せる山崎を見つめる。
傷ついたときに、熱かったろうか、痛かったろうか。
だから優しくしかできない。半端な優しさを与えて満足している。他の誰かが傷つけるのなら、他の誰かと同じようにはしたくない。
これは可愛いものなのか。
誰かに幸せを与えられるのがふさわしいようなものなのか。
真っ白な布の上をさ迷う手を探り当て、指を絡めるようにきつく握った。
すっかり血の味がしなくなった傷から舌を離して、そのまま唇へと口付ける。
(……病っつーのは、嘘でもなんでも、ねえだろう)
舌を絡めてきつく吸えば血の味がした。山崎がくぐもった声を上げて、高杉の手をぎゅっと握る。
じりじりと、神経が焼ききれそうだ。
次に目が覚めたときこいつは隣にいるのだろうかとそればかりが気になって、きっと今夜も眠れない気がしている。