宛名が濡れて滲んでいたが、それは雨に降られたからとかそういうことではなくて、その滲んだ文字を見るだけで、ああ泣いたのか、と分かるようなものだった。
 一点、ぽつりと雫が落ちたようにまあるく滲んでいる。そこだけ、紙も少し硬くなっている。
 高杉はその滲んだ部分にくちづけて、緩く目を閉じた。泣かせるようなことをしているのだろうか、どうだろうか。けれどまあ傍に置いているときでも、あいつは度々泣いたな、と思い出している。
「晋助様」
 甘い、高い、幼い声に名前を呼ばれて、高杉は閉じていた目を開けた。
「どうかされましたか」
 顔を覗き込むようにした少女は、心配そうな顔をしていた。お加減でも悪いんですか、と不安そうにしている。そんな顔をされるほど自分は情けない顔をしているのか、と高杉は少し笑った。
「なんでもねェよ」
「……なら、いいです」
 へへ、と緩く力なく笑って、また子は高杉の顔を覗き込んでいた体を少し離す。距離を保つようにしているのは、怯えているのではなくて、弁えているのだった。けれどこうして高杉が手紙を手にしているというのに、出て行かないところは、少し図々しい。頭が悪いのだ。
 そういうところが少し似ている。
 賢いくせに、頭が悪い。曖昧な気持ちに感情以外の全ても揺さぶられて、何もわからなくなって、全部を勘違いするようになって、少しずつ判断を狂わせていく。そういうところが、少し。
 かわいそうだと思う。そういうところがすごく。
「おい」
「はい」
 声をかければ嬉しそうに笑って、嬉しさの滲む声を上げた。
 似ている。けれど、その目が本当に嬉しそうで、可愛げがあるところだけ、また子の方が優秀だ。素直に、愛おしいと思える。守ってやってもいいだろう、と思わせる説得力がある。恐ろしくない。
「お前、今日は部屋へ戻れ」
 呼んだのは高杉だったが、手紙が来ては、その予定も頓挫だ。無情にひらひらと手を振って追い立てるようにすれば、また子は一瞬ものすごく悲しそうに顔をゆがめて、それからまた、ぱっと明るい笑顔を作った。
「了解っス。また明日、起こしに来ます!」
「ああ」
 一つ頷いてやるだけで、また子はあっさりと踵を返した。
 その肩が少し落ちていて、背中が少し寂しそうだ。その手首を掴んでやって、ここにいてもいい、と言ってやりたい気持ちが一瞬だけ浮かんだが、ぐずぐずしているうちにまたこはするりと姿を消してしまう。  廊下を歩く小さな足音が躊躇いもなく規則的に小さくなっていく。
 そういうところが違う。
 あれは確か、出て行けと言ってもなかなか出て行かなかったな、と涙の染みを見ながら高杉はぼんやり思い出す。少しも霞まない、鮮明な記憶だ。うんざりするほど鮮やかだ。
 少しも言うことを聞かない。口答えばかりする。出て行けと言っても出て行かず、嫌ですと言って強情に居座ろうとする。酷い言葉を浴びせかければ傷ついたような顔をする。ときには泣きもする。けれど離れようとはしない。
 俺はあなたの傍にいないと死んでしまうような気がするのです。自分が自分でなくなっていくような冷たい気持ちになるのです。
 そう言っていつか泣いていた。
 抱けばその体は硬く、冷たかった。女の体とはやはり違った。冷や汗をかいて皮膚を冷たくさせながら、内側だけ熱かった。その格差がひどく不思議で、もしかしたらこれは人間ではないのかも知れないと何度か思った。痛がって、声を上げることもあった。血を流すこともあった。けれど、一度たりとも拒絶の言葉を吐かなかった。やめてください、とは言わなかった。
 うれしい、と泣き声に混じったそれを何度か聞いた。
 うれしい、すき、あいしています。
 あなたはおれのいのちなんです。
 だからおれをすてないで。
 呪いのようなその言葉が、今でも耳に残っている。吐き気がするほど鮮明に。


 丁寧に閉じられた封をぴり、と破って、中の手紙を取り出す。
 流暢な字で綴られたそれは、決まりきった報告書だ。あたかも日常のことを報告するような内容だが、そこにひとつも真実はないだろう。

(俺が間違っていたかも知れねェな)

 あれを拾ったのがそもそも間違いだったかも知れない。
 後悔をしながら、手紙を読んでいく。少しも温かみのある言葉がない。家族に向けるように親しげな手紙なのに、そこに、少しも書き手の心が滲んでいない。
 手紙を投げ捨てて、高杉はそのままだらりと畳の上に寝そべった。目を閉じる。いろんなことが鮮やか過ぎて頭痛がする。声まで簡単に鼓膜によみがえる。気持ちが悪い。頭が痛い。

(……生きているじゃねェか)

 教えたとおりの綺麗な字だ。素質があると褒めたら嬉しそうにしていた。
 そんな嬉しそうな、楽しそうな顔を、きっと今でもどこかで誰かに見せているだろう。

(生きて、いかれるじゃねェか。お前は、俺の傍に居なくても)

 こうして手紙が書けるじゃないか。きちんと仕事をこなせるじゃないか。
 自分が呼び戻しさえしなければ、あれは帰ってこない。帰ってくる術がないからだ。けれど、高杉は、それを裏切りのように感じている。理不尽だとは分かっている。
 感情に全て揺さぶられて、正当な判断が出来なくなっていく。何が正しくて、何が間違っているのか、ひどくはっきりとしているはずなのにそのラインが少しも見えない。
 自分が傍にいずとも、笑っていられるのだろう、と高杉は薄く目を開ける。
 投げ捨てられた手紙に涙の染み。泣くぐらいきちんと、生きているじゃあないか。

(俺があいつを呼ばなけりゃ、それはそれで、幸せになるだろう)

 いつか忘れて、最初から自分で望んだことのように、今の場所に居つくだろう。
 自分と、あともう一人くらいしか、あれがここにいたことを知らないのだから、こちらが忘れてしまえばあれもまるで最初からそれが正しいかのように、今の場所で生きていくだろう。
 そう考えている。
 月に二度でも三度でも、手紙らしい手紙を寄越せばいいのに、と思っている。

「退」

 声の返らないことが分かっていて名前を呼んだ。天井に跳ね返ったそれは高杉の耳にしか届かない。
 口にしてしまったことを後悔するほど愛おしさが滲んでいるのに、名前の持ち主には、ちっとも届かないのだ。

      (09.01.18)




「記憶の箱」の高杉側の話。IN鬼兵隊において、高杉を慕うという点で山崎とまた子は似通っていたらいいなと思います。その感情に名前を付けられる分、その関係をある程度正当化できる分、高杉はまた子の気持ちの方が楽だと感じていればいいなという妄想。
そして、認めるのを躊躇うほど、高杉さんは山崎のことを愛していますという話のつもりでした。