突然お前を攫いたくなった。
ご主人様はそう言って、彼を雪国に連れて行きました。
雪が静かに降り続いている。辺りの音も全て吸収してしまいながら、まるで世界を無に戻すような白さで降り続いている。こんな一面真っ白なのに、眩しくないのが不思議なくらいだ。空はどんよりと曇っている。そうでなくても日没が近い。もうそろそろ帰らなければ、今日中に戻れないだろう。ここは遠い。遠く遠く、攫われて来てしまった。
山崎は薄く開けていた目を閉じる。瞼に、雪が触れる。
雪の上に寝転がっていたら、いつのまにか自分の体に雪が降り積もっていた。冷たい、という感覚も、もうあまりない。麻痺してしまっている。動かせば、少し痛い。
このまま声も出さずに眠ってしまえば死ねるんじゃあないかな、と、山崎は思って少しおかしかった。人は容易く死ぬものな、と思った。けれど、笑おうとしても顔の筋肉があまり動かなかったので、山崎はほ、と白い息を吐くだけにした。
そろそろ帰らなければ、戻れないだろう。
戻ればまた、お別れだなあ、と山崎は鼻を啜る。別に鼻水は出ていない。ちょっと泣きそうな気分だったのだ。
このまま真っ白に埋め尽くされて全部が無に戻ればいいのになあ。
全てなくなって、繰り返す始まりはどこだろう。
どうせあの日に戻るのだろうな、と山崎はまた少し白い息を吐いた。何度真っ白に塗りつぶして、何度やりなおしたって、自分のはじまりはいつだって同じだ。永遠に繰り返される出会いだろう。
血を引っかぶって初めて人を斬った日。
名前を与えられぬくもりを与えられ優しさを与えられた日。
自分はあの日に生まれて、そして、こんな自分を拾ってくれたあの人のために生きているのだ。永遠に。何度やりなおしても、結局山崎は、彼のために自分の命を使うだろう。
使いたい、と思っているのだから。
雪が、音だけでなく気配まで飲み込んでしまったのか、それとも凍える山崎からは全ての感覚が失われているのだろうか。閉じていた視界が急にふっと曇って、それから、さく、と近くで雪を踏みしめる音がした。
影が濃くなり、冷えた唇にあたたかくて柔らかいものが触れる。
「……おはよ、ございます」
動かない舌を懸命に動かして言い、目を開ければ、山崎をくちづけで起こした高杉は顔を顰めて、「死ぬぞ」と短く言った。
「だって、こんなこと、なかなかできません、よう」
「はっきり喋れ」
嫌そうに言う高杉の口も、実はあまり回っていない。寒いのだ。山崎の顔についた雪を払うその指が凍るような冷たさである。けれど、山崎自身の頬が凍っているので、それはあまり分からなかった。
「帰るぞ」
高杉はそう言って、山崎に手を突き出す。山崎は大人しくその手を握って、されるがままに起き上がった。手を繋いだまま立ち上がれば、全身についた雪を、高杉の手が乱暴に払っていく。
ばたばたと叩かれて、山崎は笑い声を上げた。高杉が気味悪そうな顔をして山崎を見る。
「ね、このまま、ここで遭難したいです」
凍った舌でもごもごと言えば、高杉がちょっと右目を見開いて、それからすうっと目を細めた。
「二人でか」
「ふたりで」
「一緒にか」
「俺と、あなたで」
ふたりきりでとじこめられたいです。
嫌そうに一蹴されて終わりだと思っていた山崎の予想に反して、高杉は無表情のまま黙りこくって、黙ったまま、山崎の睫に付いた雪を指先でそっと払った。
目を閉じた山崎に、
「それもいいかもな」
という声が、聞こえた。
けれど、その声はあまりにも小さく呟くようで、雪があまりに静かに降っていたので、もしかしたら、山崎の聞き間違いかも知れなかった。
帰らなくてはいけないのは、はやく帰らなければ今日中に戻ることが出来ないからで、今日中に戻ることが出来なければ山崎の休暇が終わってしまうからで、休暇が終わっても戻らなければ山崎が怪しまれるからで、それでは高杉が困るからで、高杉が困ることを山崎は自分が死ぬよりも嫌だと思っているからだ。
帰りたくないのは、繋いだ手が暖かいからで、雪に足を取られる山崎を待ってくれる高杉が優しいからで、高杉の目が少し悲しそうだからで、それは多分自分の願望だろうけれど願望じゃなければいいのになと山崎が夢を見ているからで、帰ってしまえば今日のことはなかったことになると知っているからで、帰ってしまえば、
「かえったら、また、おわかれですね」
小さな声で山崎が言った。けれど、それは決して聞き取れない程の声ではなかったので、高杉がそれに少しも反応しなかったのは、聞こえない振りだったろう。
高杉が少し前を歩いて、山崎がその後ろを歩いて、その手がしっかり繋がれている。こうやっていつだって散歩に連れ出してくれたら俺は嬉しいのにな、と山崎は思って、小さく笑った。あまりに今が幸福すぎたからだ。笑ったら雪に足を取られてつんのめった。こけるより早く高杉の腕が山崎の体を支えたので、二人は少し、抱き合うような形になった。
「晋助さん、すきです」
脈絡もなく山崎がこういうことを言うのを、高杉は嫌う。
気味が悪いと嫌な顔をすることもある。
けれど、そんな嫌な顔をしながらも高杉は山崎を突き放そうとしないので、山崎は嫌がられても口にするのをやめない。
だって、溢れてしまいそうなのだ。
好きだと思ったときに言ってしまわないと、胸の中に何かが溜まって、そのまま溢れて体が破裂してしまいそうだ。
「すきです。すき」
口があまり上手に回らないので、寒いので、たどたどしい言い方になってしまう。
高杉は山崎の体から手を離して、少し嫌そうな顔をした。
けれど、繋いだ手は離さないままで、山崎の髪につもった雪を軽く払い、冷たく凍った額に冷たくなった唇を押し当ててから「知ってる」と、言った。
再び歩き出した高杉に遅れないように山崎が慌てて足を動かす。そんな必要も、本当はないのだ。山崎が立ち止まれば高杉は一緒に止まってくれるだろう。手を繋いでいるのだから、二人分の腕の長さ以上の距離が開くわけがないのだ。
しかし山崎はそれを知らない。手が離れないように少し緊張している。なので、懸命に足を動かして、運動神経は良いくせに何度か転びそうになった。
歩けば、真っ白な雪の上に二人分の足跡がついた。時々山崎の方の足跡が乱れて、そのたびに高杉の足跡が少し後ろに増えた。何度も、何かを証明するかのように繰り返され、刻印されていくそれは、降り続く雪によってすぐに消されていってしまう。
まるで何もなかったかのように、真っ白に塗りつぶされて、無に戻っていく。
「ねえ、晋助さん」
紫色になった唇をゆっくりと動かして、山崎は高杉の背中に声を放った。
聞こえない距離ではないし、聞こえない大きさではなかったけれど、高杉は振り向かない。代わりに、繋いだ手に少しだけ力が込められたような気がした。
「ねえ、おれはね、あなたのために、こうするんですよ。あなたが望むから、おれは、おれはね、こうして、あなたとまた別れるために、帰らなきゃって、おもうんです。それがなかったら、俺は、ずうっとここで、あなたとふたりで、ふたりきりで、閉じ込められていたいんです」
あまりきれいに音は紡げなかった。あまり上手には、伝わらないかもしれなかった。
胸のうちに堪えていては自分が壊れてしまいそうなので、山崎は高杉の言葉が返らないことも気にせず、冷たい舌をゆっくりと動かす。
「俺はね、ほんとうは、死にたいとおもうことも、あるのです。死んでしまいたいと思うことが、なんどか、あって、死ぬような夢をみたりも、するのです。でも、あなたがすきで、おれはあなたがすきで、だから、あなたのために、死にたい気持ちをこらえて、生きているのです」
高杉は振り向かず、その足を動かす速度もちっとも変わらない。けれど、聞こえている証拠に、繋いだ手が痛いほどの強さで握り締められた。
どんな顔でそうするのか、山崎には分からない。どんな気持ちでそうするのか、山崎には少しも分からない。
どうしてこんなところに連れて来たの、俺はあなたのものなのに俺を何から攫いたかったの、どうしてしまいたかったの、どうして悲しい顔をするの、どうしてやさしいの、どうして。
「退」
高杉しか呼ばない名前を呼ばれて、山崎は背筋をぴんと伸ばした。はい、と答える声が寒い割りにはまっすぐ出たので、なかなかよかった。
「お前、俺が、好きか」
さっきは、知ってる、と言ったくせに。
どうしてそんな重く低い声で確認するのだろう、と山崎は笑って、そして、少し悲しかった。どうしてそんな悲しそうな声で高杉が今更確認するのか、山崎には少しも分からなかった。
手は、痛いほど握り締められているが、寒いのでそれも実はよく分からない。
もう少し歩けば、人の多い場所で出るだろう。けれど今は雪に視界が閉ざされているので、まるでこの場所が永遠に変化せず、閉じ込められて、どこまで歩いても逃げられないかのような幸福な錯覚を山崎はおぼえている。
黙ったままでいれば、もう一度、退。と名前を呼ばれた。
山崎はあまり動かない顔の筋肉を動かして、ゆっくりと笑顔を作る。きつすぎるほどきつく握られている手を、力いっぱい握り返した。
「はい、すきです。すき。晋助さん、俺はあなたがだいすきで、あなたはおれの全てで、おれは、あなたをあいしているんです。あなたがいないと、俺はきっと死んでしまう。だからこの手を離さないでね!」
「高山でIN鬼兵隊」で「二人で雪の上を歩いていたら」というリクエストで書かせて頂きました。リクエスト拝見したときに、うわぁ何それ素敵ですね!と思ってはしゃぎました。
依存しあっている二人が雪の中、というシチュエーションが個人的に大好きです。
あと、高杉さんが山崎を「攫いたくなった」のは、他の何よりも、山崎以外のことに固執するくせに山崎を手放せない自分からだったんじゃないかな、と思ってみましたが、内容にはそんなに関係ない、と思います。
何はともあれ、素敵なシチュエーションを与えてくださってありがとうございました!