爆弾なんていらない。大層な武器なんて必要ない。
抜き身の刀を横に構えて風のように往来を駆け抜ければ事足りる。
混乱だ。死だ。間違った世界を壊しつくせ。この世界は間違っているのだとすべての人に知らしめろ。
無差別に、残酷に、まるで心がないように。
誰が死んでも構うものか。大切だったあの人は世界に喰らわれ死んだのだから。
どうしてこんなに温かいものがこんなにも無防備にそばにあるのだろう、と、時々不思議に思うことがある。
血なまぐさい自分のそばに、あっていいものなのだろうか。これは。
煙を細く吐き出しながら思案する高杉の心の内も知らず、山崎は眠りこけている。薄い唇から穏やかな寝息が吐き出されている。安心したように小さく丸まっている。
仕事があったのだという。もちろん内容を具体的に語ることはないが、とにかく大変だったのだという。眠る暇もなくやっと得た非番なので寝かせてくれ、と言って、それきり。
なぜそれを、わざわざここで、なのか。高杉にはさっぱりわからない。
「顔が見たかったから」
と山崎は言った。ここ最近会えなかったので、声が聞きたくなったから、とも言った。
そんな甘いことを言った。心の中が腐敗していくような甘たるいような言葉を吐いた。
そして眠った。まったく警戒もせず、刀も放り出して。甘えるように高杉に寄り添って。
高杉の刀は部屋の隅に置いてある。追われている身でありながら常に傍らに置いていないのは、それでどうにかする自信があるからだった。
今、山崎が起きて刀を抜き高杉に斬りかかったとしても、おそらくは高杉が勝つ。高杉が避け刀を抜いて斬りかかる方が幾分か速い。そう確信している。だからこそ高杉は、近くに眠る山崎をそのままにしておいてやっている。
では、山崎は?
いったい何を考えて、どうしてそんなことをするのか。
高杉にはさっぱりわからない。
わかりたいとも、思わない。
「退」
名前を呼ぶ自分の声が、ぞっとするほど柔らかく、高杉は思わず顔を顰めた。
眠る山崎の髪に触れる指の動きが優しい。大切なものに触れるように慎重に。髪を掬っては落とし、指を通して梳き、冷たさと感触を楽しむ。
触れたいと思う気持ちを堪えなければいけない理由は、多分探せばいくらでもあったろう。けれど、堪えなくてもよい理由だって、高杉は作り出すことができた。
油断させて、安心させて、まるで大切にするように振舞って、籠絡して、心を奪って、引きずり込んでしまえばいい。そうするために優しくするのだ。とか。
「退、」
けれど、そんなこと、山崎が起きているうちにしなくては意味がないということなど、高杉にはわかっている。何の意味もないと、わかっている。
じゃあどうして? なぜ触れたいと思うのか?
考えたくはない。答えを知りたくない。知っているが認めたくない。認めないとそう決めた。認めていいものではないと自分を戒めた。
「ん……」
「退」
甘く、鼻に抜けるような声が山崎から漏れる。
高杉は目を細めて、もぞもぞと小さく動く山崎を見下ろす。冷えた頬に触れる。冷たい鼻に触る。眠たそうにむずがる子供のような山崎の様子に微笑む。
自分が今、どんな顔をしているのか知りたくない。
きっと、背筋が凍るほど、恐ろしい顔をしているはずだ。
愛しい者を見守るような、守りたいと願うような、そんな顔を、しているはずだ。
研ぎ澄まされた刀を構えて誰かれ構わず斬りつける。
罪のない人を薙ぎ倒し、この世界を作り出しこの世界で安穏と暮らしている全てを壊して世界を終わらせる。
弔いだ。そして復讐だ。あの人の犠牲の上に成り立って完成しているこんな腐れた世界なんて壊してしまった方が良いのだ。
無差別に斬りつけ殺し尽くせ。血で汚せ死骸で埋めろ。
残酷に、冷徹に、まるで心がないように。
誰が死んでも――――――構うものか。
「んー……」
「起きろ。日が暮れるぞ」
窓の外から漏れ入る太陽の明かりが翳り、部屋が薄暗くなったあたりで、やっと高杉は山崎を揺り起こした。
本気で熟睡をしていたのか、持ちあがった山崎の瞼がひどく重そうだ。開いては閉じ、を繰り返している。
「おい」
「んー…、もうちょっと……」
「……別に俺ァ、構わねェけどな」
構うのはお前だろう、と呟きながら頬に触れる。眠ったせいで体温が高くなっているのだろう。先程触れた時よりも温かかった。温かく、柔らかい。生きている。
こんなものが、どうしてそばにあるのだろう。と、ときどき不思議に思うことがある。
どうしてこんなものを、自分はそばに置いているのだろう。触れてしまうのだろう。
血なまぐさい自分が、それを進んで選択した自分が、どうしてこんな。
どうせいつかは殺すものだ。
どんなに名前を呼ぶ声に、いとおしさが滲んでいても。
すう、と山崎の唇から寝息が零れる。部屋はどんどん暗くなり、山崎の表情を隠していく。もう帰らないといけない時間だろうのに、安心して眠りこけて、ちっとも起きようとしない。
ここで殺せばそれでいいのか。思いながら高杉にはそれができない。
理由などとうの昔に知っている。出会ったときから知っている。自分にこれは殺せない。あまりに温かくて柔らかくて、いとおしすぎるから殺せない。
抜き身の刀をぶら下げて往来を駆け抜け血を撒き散らす。
無差別に残酷に冷徹に、誰が死んでも少しもかまわず、そうして世界を壊す、はずなのに。
「……どうせなら、お前が俺を、」
せめて眠るときには刀を抱いて、警戒しながら眠ってくれればいいものを。
「……ん、…しんすけさん……」
柔らかく前髪に触れる高杉の指に誘われるように、山崎が目を覚ます。
寝起きのとろんとした目で高杉を見上げ、にへら、と緩い笑みを浮かべる。
「おれねえ、知ってるよ」
寝ぼけたように山崎が言った。
「……何をだ」
「俺、ねえ、アンタが人殺しで、悪い奴で、俺をころすかもしれないって、知ってるよ」
それでもやっぱり会いたいし顔が見たいし声が聞きたいんだ。
とろとろとした喋り方でそう言って、山崎は前髪に触れていた高杉の手をやさしく握る。
「ごめんね」
あたたかくやわらかく安心しきったように無防備に、山崎が笑って、高杉の指に自分のそれを絡める。
寝起きなので体温が高い。絡んだ指に力を込めれば、とくとくと脈打つ音がする。
「退」
「うん」
「退、」
「……晋助さん」
「さがる」
零れる声がどうしてこんなに震えているのか、高杉にはわからない。
どうしてこんなにも手を放したくないと思っているのだろう。高杉は認めたくない。自分が死んでしまうようで、大切なものを裏切るようで、どうしても認められない。
体をゆっくり起こした山崎が、あやすように高杉を抱きしめた。ふわり、と匂う生き物の香り。あたたかくてやわらかくて生きている、自分以外の香り。
抜き身の刀で無差別に切り捨てた先、この体があったなら。
散らばった死骸の中にこの生き物がいたならば。
「……会わなけりゃ、よかったな」
呟いた高杉に、「俺は、会えてよかったよ」と山崎が言って笑った。
腕の中にあるぬくもりを失いたくないと思って、触れていられる今が嬉しくて、名前を繰り返し呼んで返る答えのあることが幸福だなんてそんな。
愛しさを滲ませ名前を呼んで、返る声の、あることが。
失った幸福をもう一度見つけたようだなんて、そんな。
「俺ァお前の敵だぞ」
「うん」
「いつかお前も殺すぞ」
「うん」
「……それでも会えてよかったって?」
「いいよ。知ってて好きになったんだから」
高杉の背に回っている山崎の指先に力がこもる。
窓の外から差し込む光はすっかりなく、部屋の中は暗い。表情がうまく見えない。
それでも山崎が笑っている気がして、高杉は山崎の顔を覗き込む。暗がりの中、目に映る感情を読み取れるように近づく。
当然のように唇が触れた。あたたかくやわらかくいきているもののにおいがする。
触れて離れてもう一度触れる。それすらも当たり前のことのようだ。
明日も明後日もずっと当たり前のように続けばいいような、しあわせで、どうしようもなく胸がいっぱいになることのようでもある。
この世界が明日も明後日もその次もずっと当たり前のようにあって、当たり前のように腕の中にいるこの温かい人が笑っていればいいと思ってしまう。どうしてかはわからない。高杉は認めないようにしている。そんな抵抗に意味はないとはまだ、気づいていない。
愛しいと思った時点で終わっているだなんてそんなことには気づいていない。
気づきたくないからだ。
大切だったあの人は世界に喰らわれ死んだのに。
(先生、僕は間違っていますか)
「高山」で「ふたりが幸せな話」というリクエストで書かせて頂きました。
幸せな話、ということで、高山での幸せについてずっと模索して、何をどうすれば幸せにまとまるんだろうなぁといろいろ考えましたが、こんな感じに落ち着きました。暗くても良い、と言っていただけたのに甘えて暗い話です。
山崎と一緒にいて幸せだと思うことは、ある意味高杉さんにとって最大の不幸なのではないかな、と思います。「今」を認めてしまうことは「過去」への裏切りだと思ってしまうんじゃないかなあ。
高杉さんについて考えるのはとても好きなので、この話を書けて嬉しかったです。ありがとうございました!