本当に命がけの任務だったなあ、と全て終わりきったあとにようやく山崎は息を吐いた。
動けばばれると分かっていたが、動かず放置していれば自分が潜入している意味がないので、自分の体を囮にして情報の全てを部下に流した。彼はちゃんと屯所まで走ってくれたようだった。その後一体どういう風に事が収束したのか、山崎はよく知らない。後で資料として、書面で知ることになるだろう。
捕えられ拷問されてそれでも口を割らなかった優秀な監察が助け出されたのは、全てが終わってから四日後のことだった。
「悪いが車は出せなかった。歩けるか」
真っ暗でじめっとした倉庫の扉が開かれても一筋の光も差し込まなかったのは、外の世界が夜だったからだ。両手足を縛られて転がされていた山崎は、扉を開けた人を見てうっすらと微笑んだ。外の世界も暗いのにまぶしくて目を開けていられなかった。
目を閉じて小さくうなずいた山崎の傍らに土方は膝をついて、山崎を縛る縄目を丁寧に解いた。擦れてついた赤い跡に少し触れ、それから無遠慮に手を掴んで引きずり起こす。
二、三歩よろめいた後にしっかり立った山崎を見て、土方は
「行くぞ」
短く行って背を向けた。
とことことその背中に着いて行きながら、山崎は胸に手を当てる。
とくとくと音がする。自分はちゃんと生き残ったのだなあと、このときやっと実感した。
市中から離れた場所なので街灯もなく、月もないので辺りは暗い。
山崎がきちんと歩いてついてくるのを横目でちらっと確認した土方は、倉庫の外に置いてあった提灯をおもむろに手に取った。煙草用のライターで火を灯す。
「暗いな」
「はあ」
「提灯つけてやっから見えるだろ。足元気をつけろよ」
気遣うように言って、土方は歩きだした。
本当は、そんなものなくても見えるのだった。山崎は普段から夜目が利くうえ、長いこと暗い場所に閉じ込められていたので目はすっかり闇に慣れている。土方も一応夜目は利くほうなので、提灯の役割はどちらかと言えば、精神安定に近かった。土方の歩くリズムに合わせてほわほわと揺れる提灯のあかりは、山崎のささくれ立った心をすこしずつ凪に戻して行く。
腰の辺りが妙に軽い。そういえば刀を奪われてしまった。
(副長がくれたものなのに。もったいねえな……)
なくしました、と言えば叱られるだろうか。
それでも、言わなければ咎められるだろうし、と口を開きかけた山崎に先駆けて、
「お前の刀な」
土方が同じ話題を口にした。
「はい」
「押収品の中にあったぞ。抜いておいた」
「あ……ありがとうございます」
「侍が刀取られるたァ、情けねえなあ」
「すいません」
情けない、と言いながら、その言葉には咎める色も呆れる色もなかった。
まあ仕方がないことだ、と割り切っているようでもある。失望させやしなかったろうか、と少し山崎は心配して、だがしかし、本当に仕方がなかったのだ、とその心配を打ち消した。
(副長は、勘違いをしている。俺は侍ではなくて、ただの副長の駒なのに)
だから刀の一つなくしたって、本当は構いやしないのだ。
ただ、その副長が下した刀だったので山崎にとっては半ば宝物のようなところがあって、それが返ってくるというのは素直に嬉しかった。
(また副長の手で渡してくれればいいな。そしたら俺はそれでまた仕事をしよう)
これで斬れ、と言ってくれたら、何十でも何百でも斬ってみせよう。
体が痛むことなど束の間忘れて、山崎は嬉しい気持ちで土方の背中に近づくために、少し歩く速度を上げた。
土方は振り向かない。
提灯をゆらゆら揺らしながら、前だけを見ている。
「山崎」
「はい」
声をかけられ、見えていないというのに癖で背筋を伸ばした。
「怪我はねえか」
「それ最初に聞くことじゃないんですか。ないです」
「そうか」
「よかった、とか言えないんですか」
「帰ったら手当してやるから我慢しろ」
「……だから、ないっつってんじゃないですか」
「お前の嘘をなァ、俺が見抜けねえと、思うなよ」
会話の最中一度も振り向かないで土方は言った。声は平坦で別に震えてもいなかった。
「……じゃあ聞かなきゃいいじゃん」
「聞かなきゃわかんねえだろうが」
「矛盾してませんか」
「してねえよ。本当に怪我がないときは、いてえだの疲れただの甘ったれたことばっか言う癖に」
「……」
「お前が大丈夫だっつうときほど、大丈夫じゃねえんだよ。なめんな」
声は平坦だが少しだけ得意げでもある。俺はこんなにお前のことを知っているんだぞ、と自慢をされているような妙な気になる。
もしやこれはある種の愛の告白なのだろうか。
思ったら、こんな状況だと言うのに顔が熱くなった。
人は何度でも同じ人に惚れることができるんだなあ、と全身の痛みを堪えながら、場違いなことを考える。
「御見それしました。さすがですね」
「お前馬鹿にしてんのか」
「いいえ、素直に感心してます。部下を大事にしなさるお方だなあ、と尊敬しなおしていたところです」
「飼い犬の様子を気遣うのか、飼い主としてのつとめだからな」
「左様ですか」
「山崎」
「はい」
「悪いな。着いて来いよ」
どうも、会話の前後が繋がっていないような気がする。ほわほわと提灯の明かりは揺れていて道はぼんやり照らされているが土方は振り向かないのでその表情は伺えない。山崎は視線を落とす。特に足場が悪いというわけでも、土方の歩く速度がはやすぎるというわけでもない。
何を謝られたのだろう。
首を傾げてしばらく考え、明確な答えが見つからなかったので
「なにがです」
馬鹿正直に聞いた。
「着いてってるじゃないですか、ちゃんと」
「お前、馬鹿だなあ。情緒がねえ」
「はあ」
今の会話のどこかに情緒があったろうか。
「ついておいでよこの提灯に、っつう歌があってな」
「……ああ」
「そういう意味だろうが」
「だから提灯なんすか。わかりづらっ」
「いや別にそういうわけじゃねえけど。迎えに来るのに灯りも持たねえで手ぶらっつうのもねえだろ」
「あんたは刀一つもってりゃいいんですよ。見えないなら俺が先導します」
「そう言うなよ」
「それに、」
ふふ、と笑い声が山崎の唇から零れる。
「苦労させないっつったって、さあ。そもそも俺はあんたと出会ってから、わりとしんどいことばっかですよ」
そうか。と答えた土方の声にも軽い笑い声が混じった。
ゆら、と揺れる提灯の明かりは頼りなげなのになかなか消えない。
「そんでも、それが好きで頑張ってんだから、いいじゃないですか」
「うん」
「提灯なんかなくたって、見えなくなったりしませんよ。俺にとっては、土方さん、あんたがずっと、灯りみたいなもんなんだ」
しばらくの間会話が途切れて、土方は何を考えているのだろう。ざっざ、と土を蹴る足音だけが夜に響く。揺れる提灯の明かりにぼんやりと照らされた土方の背中だけ見つめる様にして、山崎は痛む体を騙しだまし歩いた。
死んだ方がましかもしれないと思うことがあっても、倒れたくないし死にたくないしこうして歩いていたいのは、辛いこと全部納得づくで、やりたいことがあるからだ。
かなりの時間が経ってから途切れた会話に、ふ、と何か言いたげな呼吸が落ちて、それからやはりしばらくの間を置いて、
「だとしたら、俺はお前にしてやれることが、なんもねえんだなあ」
独り言のように土方が零した。
少し情けない声だったので思わず笑ってしまう。その笑いに怒って振り向くかと少し思ったのだけれど、土方は前を向いたままだった。
泣いているような声でもない。顔を隠したがっているようでもない。
一度でいいからこっちをちゃんと向かないかな。目を合わせてくれないかな。
笑いを引っ込め山崎は俯く。
「じゃあ、こっち向いてくださいよ」
寂しくなってうっかり言葉が出た。
規則正しく響いていた土方の足音が少し乱れた。
「……無理」
「なんでですか。会ってからこっち、一回もちゃんと、顔見てくれないじゃないですか」
「帰ったら嫌ってほど見れるだろうが」
「今がいい」
「暗いし見えねえよ」
「提灯あるじゃないですか。見えますよ」
「無理、無理」
「土方さん」
「無理だっつうの。今、顔見たら、抱きしめちまうよ」
「……」
「傷に障んだろ」
思わず。
痛む足で地面を蹴って山崎は土方の背中に飛び付いた。気配で気付いただろうに土方は避けず、足を止めてそれを受け止める。
ほとんど全身傷だらけなので抱きついただけで体が痛んだがどうでもよかった。
土方の体に目いっぱい腕をまわしてきつく抱きつく。
動かないでいた土方が小さく溜息を零して、あ、引きはがされる怒られる、と山崎は身構えた。しかし土方は山崎の予想に反して、背中を軽く屈め、よっ、と軽い掛け声をだす。
「わ、ちょっ…!」
ふわ、と足が地面を離れて持ち上げられる。とっさに土方の首に腕を回せば、山崎を軽く担ぎなおした土方が、何事もなかったかのようにさっさと歩みを再開した。
負ぶわれたのだ、と気付いたのは、視界がとんとんと、提灯と同じリズムで揺れだしてからだ。
「捕まってろよ。落っこちんなよ」
「ちょ、ひじかたさん!」
「歩くのもつれえんだろうが。大人しくしてろ。寝ててもいいから」
「…………」
「なあ」
「……はい」
「何にもしてやれねえけどな。着いて来いよ」
「……ちゃんと、着いてってるじゃないですか、出会ったときからずうっと」
「これから先の話だよ。山崎」
「はい」
「よくやったな」
返事をする代わりに首にきつく抱きつけば、子供にそうするように優しく土方が山崎の体を抱えなおす。
全身が痛むので負ぶわれているのも辛いのだが、そんなことはどうでもいいのだ。痛いのも辛いのも最初から納得づくで、それでもやりたいことがある。
今回もこの人の命をきちんと守れたのだと思ったら誇らしくなって、褒美をねだるかのように、山崎は土方の黒髪に血濡れた唇でくちづけた。