少し、長くこの場所に留まりすぎたのだ。
高杉は布団の中、ぼんやりと天井を見上げて溜息をついた。
寝起きのぼやけた視界に映る天井は、染みの位置まで馴染み深いものになってしまっている。手を伸ばし、布団の横に無造作に置いた刀を引き寄せ腕の中に抱きこんだ。深呼吸をする。
最初はほんの少しだけの、一時期的な仮宿の予定だったのだ。それが、あと少しもう少しと引き延ばすうちに、すっかり定宿のようになってしまった。持ち物が少ないのが、まだ救いだ。今ならまだ、身一つでこの部屋を去れるだろう。
今夜にでも発とう。
刀を抱くようにして横を向く。目を閉じる。瞼の裏で、今見た夢を反芻する。
ぎしりと階段が鳴って人の気配がして、自分はいつも通りその気配を部屋に迎えた。音を立てずに襖が開き、そっと中を伺うようにして覗く顔。目が合えば、それはほんの少しだけ細められ、それがまるで嬉しさを滲ませるようなのだ。そっと部屋の中へ滑り込み、音をさせずに襖をぴたりと締める。刀を腰から無造作に外し、傍らに置いて高杉の前に座る。
久しぶり、と彼は言う。高杉の刀は遠く、部屋の隅に投げ置かれてる。ああ、と返事を返す。短いそれに彼はやわらかく笑って、それから、懐から取り出した本を広げて読み始める。ぱらり、とページを捲る指。それをじっと見ていれば、彼はふと顔を上げ、なに? と笑う。なにをしているのだ、と聞きたいのを堪えて、高杉は、いいや、と言葉を濁す。何読んでんだ、と聞けば、これ? これはねえ、と楽しげに表紙を見せてくれる。本の表紙は何てことはない娯楽本で、高杉はすぐに興味を失う。本の中身は表紙とは違い、大切な機密が書かれているのでは、と一瞬思い、すぐにそれを打ち消す。彼は興味の薄い高杉に苦笑を零して、再び本に視線を落とす。ぱらり、と紙のめくられる音。高杉は立ち上がり、小さな棚から茶筒を取り出し茶の支度をする。彼の視線が少しあがり、高杉の行動をしばらく眺める。湯を入れるために部屋から出ようとすれば、少し不安そうに眉を下げる。茶菓子がいるか、と聞けば、はっと表情を引っ込めて、どっちでも、と曖昧に笑う。
湯を汲んで部屋に戻れば、部屋を出て行ったときよりも寛いだ姿勢で、彼は相変わらず本を読んでいる。高杉の姿を目にとめて、体を起こそうとするので手で制する。茶を入れて、湯と一緒にもらってきた茶菓子を出してやれば、嬉しそうな顔をする。いただきます、と律儀に言って、躊躇いもなく茶を口に含む。喉に押し流すその様子をじっと見つめれば、なに? と不思議そうな顔。毒でも入ってんの? と笑うので、苦笑を返して高杉も茶に手を伸ばす。そうかもな。と言えば、こわい、と、ちっとも怖くなさそうに言って、今度は茶菓子に手を伸ばす。本当に毒でも入れておけばよかったかな、と少し後悔をする。
することもないので三味線に手を伸ばす。調弦をする様子を、彼は興味深そうにじっと見つめる。なんだ、と問えば、別に、とそっけない返事。びいん、と弦をはじけば、彼は本から手を離し、無防備に畳に横たわる。
なんか歌って。とねだるので、何がいい、と弦をつま弾きながら聞く。子守唄にふさわしいような、優しい歌があっただろうか、と首を捻って考える。彼は少し考えて、恋の歌、と呟く。調子外れの音が鳴り、高杉は少し深めに呼吸をした。彼はそれに少し笑って、ゆるりと目を閉じる。高杉そういうの得意そう、とからかうような声音なので、お前よりは随分な、と軽口で答え弦をつま弾く。ここで彼に聞かせるような、恋の歌があっただろうか。少し考え、思いつかず、結局即興で作った。
告白めいたものになって少し慌てたが構わなかった。
聞きたいといったのは彼だったので。
そこで目が覚めた。
夢の中で作った歌は一体どんな歌だったろうか。そこだけおぼろげで思い出せない。それを聞いて彼は一体どんな顔をしただろうか。あるいは平気で眠ってしまっていたかも知れない。彼はそういう人間だ。
まるで手の届く日常のようなそんな夢だった。
目が覚めてまず覚えたのは幸福感と喪失感だった。
そんなことが、あっていいはずがなかった。少し長い間、この場所に留まりすぎたのだ。
今夜きっと、出て行こう。決意して体を起こす。布団を上げ、身支度を整えて、いつもの癖で窓脇に座る。窓の外は隣の建物の壁が近く、ろくに景色は見えやしない。けれど細い路地の先、宿の入り口はよく見えた。
夢の中の自分もここにこうして座って、そうして待っていたような気がする。
馴れた気配が部屋にあがってくるのを、何とはなしに待っていたような気がする。
これではいけない、と目を閉じた。刀は部屋の隅に捨て置かれている。あれをいつも傍に引き寄せて置くほど、自分の腕に自信がないわけではない。けれどやはり本来は、傍に寄せておかなければならないのだ。それは気構えの問題だ。自分は今、あまりよくない精神状態をしている。
苦々しく思いながら、刀の代わりに三味線を引き寄せた。夢の中と同じように調弦をして、軽く弦をはじく。びいん、と震える音がして、観客はいない。
適当な歌を弾きながら、考えるのは次の潜伏先だ。さてどこへ行こうか。何かおもしろいことが、あったろうか。戦力不足を痛感している。もっと派手にやるためには、もっと大きな力が必要だ。からくりを使った武器を研究しているものがあると聞く。行ってみようか。不幸の匂いがするので、引き込めるようなら引き込もう。悲しい人間が世界には多すぎる。悲しい人間ばかりを生み出すこの世界は間違っているのだ。誰も泣かない世界を作らなくてはならない。まずは一度、世界を壊そう。壊してそれから、作りなおそう。
計画を練って目を閉じる。夜が更けたらここを発とう。そしてもう二度と戻らない。
やるべきことがあるのだ。やろうと決めたことがある。
一時の感傷で、捨てていいことではないのだ。
心に決めて目を開ける。ふと窓の外へその目を向ければ、小さな影が真っ直ぐと宿に吸い込まれていった。あ、と高杉は心の中で声を上げる。はじいた弦が無様に震えた音を出す。
とんとん、と階段の鳴る音。
音を立てずに襖を開き、中を伺い覗く顔。
久しぶり、とはにかんだように笑うので、思わず、夢か、と問いかけた。夢をそのままなぞっているようだ。来訪者は不思議そうに首を傾げて、部屋にするりと入り込んだ。静かに襖をぴたりとしめて、腰から刀をそっと外す。
夢か、と再度尋ねれば、曖昧に笑った彼は、そうかもね、と返した。
山崎、と名前を呼べば、どうしたの? と呆れたような笑いを見せる。
そうだ、そうだ思い出した。あれはこんな歌だった。弦を指でなぞって、高杉は視線を落とした。不思議そうに山崎が見つめるので、口の端が思わずあがる。泣きたい気分だ。
歌ってやろうか、と言えば、うん聞きたい、と素直に言った。恋の歌だぜ、と言えば山崎は少し息を呑んで、うん聞かせて、と静かに言った。
即興で作った恋の歌。夢の続きを辿るように、告白めいたその歌を、高杉は静かに部屋に広げた。