あの人は強いよ。
 お前らのような実力を見極める術を持たない哀れなクズには分からないだろうけどね。
 あの人は強いよ。お前らなど一生その技を見ることすらできないだろう。
 だってお前らあの人の前に立ってごらんよ。それがあの人だと理解するより先に肉の塊になっているはずだよ。
 哀れだね。本当に哀れだ。かわいそうだ。涙が出てくる。
 あまりに可哀想なので代わりに俺が相手をしてやろう。
 何、安心しな。俺は弱いよ。
 だって俺は未だかつてあの人に勝てた試しがないんだからね。

 そう言って地面を蹴り刀を一振り。






「……誰が弱いって?」
 刀を無造作に振って血を払う山崎に後ろから声をかければ、山崎はびくっと大げさに肩を揺らして、それからゆっくりと振り返った。思ったよりも低い声が出たな、と、沖田も少し驚いている。一歩近づく足が重たいのは精神的な話ではなくて物理的な話だ。ただでさえ重い隊服が血を吸っている。
 が、黒くて見えない。分からない。
 そのための色なのである。
「沖田さん」
 山崎の声は普段と変わらずに、高く細く甘かった。
 その代わり、硝子玉のような目をしている。人形のようだ。死人のようでもあるが、そこまでどろりとしてはいない。やけに透き通っている。けれど感情がない。やはり、たとえるなら人形のようだった。
 あれこいつは人形でなくて狗じゃなかったっけ、と思ったけれど、どちらにしても同じことなので口にするのはやめた。
「……どこから、聞いてたんです?」
「お前らのようなクズ、辺りから」
「……ならいいです」
 素っ気なく言って、山崎はすい、と目を逸らす。血を振り落とした刀を鞘に通そうとするが、曲がっているのか上手くおさまらないのだろう。小さく一つ舌打ちをして、山崎は刀を無造作に腰のベルトに引っかけた。
(優秀な監察っつうのは、あいかわらず、嘘だな)
 そんな殺気を振りまいて、あんな派手に殺して見せて、凍ったような目をして、苛立って、沖田と目を合わせない。
 他の誰は誤魔化せても沖田のことは誤魔化せないとはやく観念すればいい。
 こんな態度では、たとえ会話を途中からしか聞いていなくても、何があったか分かってしまう。
(お前は俺の刀でないんだから、俺のためになんか人を殺さなくたって、いいのになァ)
 そんな人ではないような顔を、するほど、無造作に無残に殺して見せなくたっていいのになあ。視線を巡らせて沖田は眉根を寄せる。飛び散った血の量とそこにある惨状は、まったく普通ではないのだった。
「山崎ィ」
「……文句は受け付けませんよ」
「違えよ。俺はおめえの飼い主じゃねえから、おめえをしつける義理もねえし。そうでなくって、検分。はじまっぞ。おめえが行かなくてどうするよ」
「ああ、そうですね」
 忘れてました。言って、山崎はポケットから白い手袋を取りだした。
 沖田さんはどうするんですか? といつも通りの間延びした口調で言いながら、警察官らしい手袋を手にはめていく。歯を使って器用にはめるその仕草がいやらしく見えるのは、沖田の頭が今どうにかなっているからだ。真っ白い手袋を見て、そこではじめて沖田は、山崎が返り血を浴びていないことに気づいた。
 おびただしいほど他人の血を流しながら、それでも一滴も汚れないというのは、なかなか出来ることではない。芸当としてはすごいことだ。
 すごいことだが、悲しくは、ないだろうか。
 落とせる汚れが少しもないだなんて。
「山崎、」
 思わず出かかった「大丈夫か」という言葉を、沖田は寸でのところで飲み込んだ。
 そんなことを聞いたって、山崎はへらっと笑って、何がですかぁ? と聞くだけだ。
 そもそも、何がどうしていたら大丈夫で、どうだったら大丈夫でないのか、沖田にだってわからない。
 けれどそんな冗談のひとつで、山崎が笑うのなら、それもいいだろうか。どうだろうか。
 何をどうすればいちばん正しいだろうか。凍ったような山崎の表情がおそろしいと思うのは沖田の勝手な主観で、一滴も血に濡れていない山崎よりも、頭から血をひっかぶっている自分の姿の方が、はたから見ればよほどおそろしいだろう。
「沖田さん?」
「……いや、」
 こちらを向いた山崎の視線から逃げるように顔を背けた沖田の髪に、不意に山崎が手を伸ばした。
 血に汚れないまま真白であった手袋が、そのことでじわりと汚れた。血の色が滲む。
「はやく帰って、これを」
 落としてしまってくださいね。
 細い声で山崎が言った。
 沖田は一度逸らした視線を、再び山崎に向ける。悲しそうに笑っている。何がそんなに悲しいのやらわからないが、慰めてキスのひとつでもしてやりたくなるような顔である。
「……心配しなくても、平気だぜ」
「なにが?」
「雨が降るから」
 それで全部落ちちまうよ。
 沖田の言葉が終わるのを見計らったようなタイミングで、二人の間に水滴が落ちた。
 落ちて、弾けて、次々と降る雨は、まず山崎の鼻を濡らして手を濡らして沖田の髪を濡らして靴を濡らした。
 ばちばちとアスファルトに叩きつけられる血が、山崎が派手に広げた血の跡をゆっくりと洗い流していく。
 赤い川が沖田と山崎の間を流れて行く。沖田の髪からも、赤い水滴がぽたりと垂れる。
 すっかり麻痺した鼻に、鉄の匂いが思い出したように届いた。
「すっげ。沖田さんって魔法使い?」
「外出る予定があるときは、天気予報くれえ見てこいよ」
「討ち入りんときにそんなの気にすんの、火薬部隊くらいですよ。だから今日刀だったんだ」
「俺ァ本気のときはいつでも刀だぜ」
「はは、知ってる」
 ふわ、と山崎が笑った。
 目は相変わらず凍ったような人殺しの目をしていたが、それでもその顔に血の気が通ったことに沖田は少しばかりほっとする。
 雨が降ったからだ、とどうしようもなくくだらないことまで思った。
 先ほどされたのと同じように、今度は沖田が手を伸ばして山崎の髪に触れる。濡れた髪を少し撫でる。
「よかったな。これでおめえもきれいになるぜ」
 ぐしゃ、と髪をかき乱して笑ってやれば、山崎は驚いたようにちょっと目を見開いて、それから笑った。
 なかなかきれいな笑い方だった。
「うん。でもまあ、俺ははなっから汚れていないので、落としようがないでしょう」
 雨だけだと風邪をひくので帰ってちゃんと風呂に入ってくださいね。言いながら山崎は沖田の手をやんわりとどける。
「俺に触ると汚れるよ」
「おめえははなっから汚れてねえんだろ」
「うん、でも」
 俺はねえもう染みついちまってるもの。
 次第に強くなる雨音にかき消されてしまうくらいの細さで呟かれたその言葉に、
(そんなのは、俺だって、おめえの飼い主だって、おんなじだ)
 沖田は、聞かなかった振りで、答えなかった。
「……おめえが検分終えるまで、待っててやっから。そんで帰って一緒に風呂に入ろうぜ」
 無理矢理どかされた手を、もう一度その濡れた髪の上に乗せる。
「だからはやく仕事終わらせてこいよ。これはてめえの、仕事なんだろ」
 本当はその手をもう一度どかされでもしたら少し立ち直れないなあと心配したのだけれど、そんなことはなかった。山崎は目を閉じて、少し長く、目を閉じていて、何か言った。ありがとう、だったか、好きです、だったか。雨の音で聞こえなかった。

      (09.06.23) 洗ったようでも泥水育ち どこか臭みがついている