別に怖いわけじゃあ、ないんだぜ。言えば山崎はちょっと小憎たらしいくらい優しい顔をした。
 怖いわけじゃあ、ないんだ。あいつらを救うにはきっと、あいつらの願いを叶えてやりゃあいい。それは俺にとって別段苦しいことでもないし、それであいつらが救われるのなら、俺もそれで救われるさ。殺せ殺せと呻いて夜だって眠られやしねえが、それでもけっして、こわいわけでは、ないんだぜ。あいつらの痛みは俺の痛みであいつらの苦しみは俺の苦しみであいつらの声は俺の中にいるどす黒く渦巻いてる化け物の糧だ。分かっているから、こわくないんだ。
「そうですね。きっとその気持ちだけで、救われる魂も多いでしょう」
 何も知らないくせに山崎はわかった風なきれいごとを言った。まったく、何も知らないからこそ言えるような薄っぺらい言葉だった。ただ高杉をあやすだけの言葉だ。糞生意気に出来ている。救ってやりたいという気持ちひとつで救えるような、そんな生半なものではねえんだよ。
 そう思うのに不思議と腹が立たない。高杉は静かに
「そうだといいな」
 言って、傍にあった山崎の手をおもむろに握った。山崎はとろけそうな笑みを浮かべた。
 そうだといいな。救われてくれりゃあいい。そうすれば自分も少しは救われるだろう。ところでこいつはいつの間にこんなに上手に笑うようになったのか、不思議に思って高杉は笑う山崎をまじまじと見つめた。
 薄っぺらい笑みしか見せなかったはずだった。
 怒ったり泣いたりも大して上手くはなかったが笑うことが一番苦手で何度高杉がぶっても上手く笑いはしなかった。
 うそつきの笑みだった。高杉はそれが嫌いだった。おべんちゃらの笑顔だ。そんなもの何の役にも立たないとしっている。いつか裏切るような人間がそういう笑みを浮かべるのだ。そして人に嘘ばかりついて生きていた山崎は、そんな笑い方しかできなかった。
 そのはずだった。なのに今は、どうだ。優しく柔らかく嬉しそうな笑みを浮かべている。少し握った手に力を込めてやれば、はにかむようにする。好きです、と、相変わらず脈絡もなく、歌うように零す。
 いや、今は、脈絡があるのだろうか。
 握った手を高杉は少し自分の方へ引いた。山崎の腕がぴん、と引っ張られ、それから体がおずおずと近づく。首に手を這わせればくすぐったそうにする。少し着物の袷を開いてやれば身を捩る。いつの間にこんな人間らしく、なったのだったか。高杉にはちょっともう思い出せなかった。
 最初に会ったときにはそれこそ亡霊のようだったな、と、ぬくい肌に手を這わせながら思い出している。
 死んだように目に力がなく、だらだらと血の伝い落ちる刀をしっかり握っていて、怖いのか何なのかかたかたと震え、手から刀が離れなかった。それからしばらくたってもまだどこか作り物めいていて、作り物のくせにやたらと高杉には懐いた。好きです愛してます俺をあんたのものにしてと狂ったように気味の悪いことを言うくせに目がちっとも笑わないので、そう、思い返せばあのときの山崎の方が、夢にまで追ってくる過去の亡霊よりよほどおそろしかったろう。
 それが今では甘えるような顔で高杉にすり寄って、肩に頬を押し付けている。生きているので肌があたたかく、高杉の肌に触れる吐息が生温かい。亡霊でなくて人形でもなくて確かにこれは人間である、さて、そうしたのは一体誰だったか。もしや自分だろうか。考えながら高杉は山崎の顎を指で掴み、肩にもたれかかっていた顔を持ちあげさせた。従順に山崎が目を伏せるので、薄く開いた唇に噛みつく。歯で柔く噛んで、舌で軽く舐める。それから軽く触れ合わせてやれば、山崎の指が高杉の指先を緩く握った。
 眠れない夜にこうして山崎を呼びつけるようになったのはいつからだったか。拾ってすぐだった気もするし、意外に最近のことのような気もする。
 こわいわけでは、ないのだ。耳の奥で呻く同胞たちの声はこわいというよりただただ悲しかった。悲しくて自分の心の黒い部分が少しずつ肥大していくだけだった。
 こわいとするなら、そうだな。
 柔らかい丸みがあるわけでも掌に楽しい弾力があるわけでもない体をまさぐりながら考える。
 そうだな、こわいとするならきっと、この世界が壊れてしまうことが、こわいのだ。
 自分が自分であるためにこの世界を壊さざるを得ないことがこわくてかなしい。
 全て与えてくれた人の愛した世界を壊さなければいけないことだけ、こわい。
 だからきっと夜も眠れないのだ。冷えた足先を温めるために山崎を呼びつけてこんなことを、するのだった。高杉の手に甘やかされて熱を持つ山崎の肌は、柔らかくもないし特別吸いつくようにきめ細かいわけでもないが、冷たい手に心地よかった。
 腰を抱えて引き寄せれば、ずるりと山崎の体が近付く。
 優しい笑みを、浮かべている。こんな笑い方をするのだったか。
 高杉の前に膝立ちになった山崎は、熱を持った指先でそっと高杉の髪に触れる。優しく撫で、柔らかく梳き、あらわになった包帯に軽く唇を落とす。
「大丈夫ですよ」
 薄っぺらく、山崎が言った。
「俺がずうっと、傍にいます」
 お前がずうっと傍にいることで何が大丈夫だというのだ。やけに自信を持った山崎の言葉の響きに首を傾げながら、高杉は山崎の首筋に噛みつく。
「俺はあなたの道具だからあなたの命令なしには死なないけれど、普通にずうっと傍にいるけど」
 熱い指先が襟足をくすぐる。あやすような動きでもある。糞生意気だがやけに心地いい。心臓の奥からじんわり温かくなってぬくい何かが体中を満たすようだ。あるいはそれは単なる情欲かもわからなかったが。
「もし、俺が、あなたに焦がれ死んだとしても」
 くすり、とまるで人間のように山崎が笑った。
 道具だというくせに、生きているもののような気配を見せた。
 それが高杉には少し面白かった。相変わらず言うことは狂っているし気味が悪いがそれでもあの嘘のような笑みを見せることはもうないのだろう見せたらきっと殺してやろう。思う。
 思いながら、その、何だかわからない気味の悪いそれでも確かに生きているものの肌に、高杉は躊躇いもなく、唇を這わせている。味わうようにときに舐め、刻み込むように歯を立てる。
 笑っているのか、喘いでいるのかわからないような声が、山崎の唇から零れる。
「……焦がれ死んでも、俺は、ずうっと、傍にいますね」
 あんたの心の中を占領しているものたちに俺は嫉妬をしているのです。
 言って、山崎は、やはりまた少し笑った。
 別に夜こうして眠れないのはこわいわけではないんだぜ。ただ少し体が冷えて眠るのに苦しいことがあるだけだ。恨みも憎しみも自分の糧で、そのために自分はこうして生きているのだから、こわいわけでは、ないのだ。
 言うのに、それでも山崎は、あやすように高杉に触れている。
 しかし不思議と腹は立たない。後頭部をひっつかんで引き寄せ、少し乱暴に唇を重ねた。
 絡めた舌を強めに噛んで、ゆっくり唇を離してやる。
 伏せた睫毛を持ち上げた山崎の目が、涙で濡れているのが少し、美しい、ような気がした。
「死んだってずっと傍にいるから、こわくないですよ」
 ひどく自惚れたことを、山崎は言って、叱る言葉を封じるように高杉の口を唇で塞ぐのが、やはり少し生意気だ。

      (09.05.25) もしもこのままこがれて死ねば こわくないよに化けて出る