目を閉じて気配だけ感じている。
窓の外から入りこむ白い月明かりだけが瞼から透けてぼんやりと明るい。
時折、ぱら、と薄い紙を捲る音がする。わあ、とか、すげえ、とか小さな声もする。その後決まってはっと息を飲むのが面白くて、何度か笑い出しそうになる。
ただ目を閉じているだけだからそんなに、音や、声を、気にすることはないのだと、言ってやった方がいいのかどうか。
それでも、それを伝えて目を開けてしまえばこの空気が壊れるような気がして、やはり高杉は黙ったまま、目を閉じたまま、白い月明かりと山崎の気配だけ、静かに楽しむことにした。
近くもないが、遠くもない。きっと腕を伸ばす程度では捕まえられないだろうが、声が届かない程遠くではない。名前を呼べば、声が返るだろう。少し高い声で、何? と聞くだろう。それで高杉は少し安心している。傍にいる、ということが、神経を研ぎ澄まさなくてもわかるくらいの距離だ。遠くもないが、近くもない。ひたすら自然な、ともにあるのが当たり前のような、穏やかな距離だ。
ぱら、と紙を捲る音がする。
短い間隔で続くときもあれば、なかなか次の紙が捲られないこともある。
勝手に雑誌など持ちこんで好きに読んでいるので殊更構うこともないだろうと放っておいている。
行燈の小さな灯りひとつで読んでいるので、目を悪くするのではないかと少し心配した。
別に山崎の目が悪くなったところで、高杉にとってどうということもないのだが、わざわざこんなことで、弱点を増やさずとも良いのではないか、と思うのだ。
それとも、監察などやっているから夜目が利くのか。
どちらにせよ、不自然だ。別に俺ァ起きてるから灯りを普通に点ければいい、という一言を、それでも高杉はどうしても口にできなかった。灯りを点ければここにある、当たり前のように自然で不自然な空気が壊れるような気がして、それがなぜだか、ひどく耐えがたかったのだ。
気配だけ感じて、ぼんやりと目を閉じている。
空気に少し、馴染みのない煙草の匂いが混じっている。
当たり前のような顔をして訪ねるなら、煙草の匂いを消してくればいいのにな。ふとそう思ってから、高杉は小さく口元を歪めた。
そんなことを考え付く自分にぞっとした。
煙草の匂いなんか消えてなくなるくらい、自分の匂いを染み込ませてやりたいな、と思っている。本当は。
くちづけだってできないくせに。
結局高杉は臆病なのだった。
何でもないことのようにここを訪ねることができる山崎の方が、ずっと覚悟をしているのかも知れないな。何の覚悟かは、知れないが。
結局自分は臆病なのだな、と小さく息をつく。
気配が傍にあって、ぱらりと小さな音と、小さな声が時折するので、それで、安心をしている。
ふわふわと夢を見るような気分だ。月の明かりだけわずかに明るい。うつらうつらとしている。もしかしたら自分は眠っているのかも知れないな、と起きている部分で高杉は考えている。こんなにも無防備に眠れるのだったら俺も案外覚悟というものを、しているのかも知れない。低く笑った。
瞼を透けてぼんやりと明るかった月の光が急にふっと翳ったので、不思議に思って目を開けた。
同時に、唇に生温かく湿っぽい柔らかい吐息が吹きかかって、ぞくり、と背中のあたりが痺れた。
「………」
「……何だ」
「…………なんでも、ない」
上ずった声で返事をしてさっと目を逸らした山崎が驚くほど近くにいた。
高杉は右目を静かに瞬かせて、山崎をじっと見つめた。
このまま見つめてたら穴でもあくんじゃねえのかな、というくらい、近い。
唇に触れた吐息の感触がまだ残っているようだ。もう少し近ければきっと焦点が合わず山崎の姿を視界に焼き付けておけない。くちづけを、しようとしていたのだとは、すぐに知れた。そんなこと聡い高杉でなくとも分かるくらい、あからさまに不自然な近さだ。
山崎の体に隠された月明かりが、山崎の髪を後ろから薄く照らして、光の粒が山崎の黒い影を縁取っている。
「……起こした?」
「いや……」
瞬きを繰り返しながら、高杉も山崎から目を逸らす。
近すぎるほど近かった山崎の体が、じりじりと少しずつ離れていくのが視界の端で見て取れた。近かったということも忘れさせるくらい、自然にゆっくりと、少しずつ離れて行く。
最初から距離を保っていたように見せかけている。
けれどやはり、腕を伸ばせば簡単に抱きしめられる距離だ。
「おなかすいた、ねえ」
目を逸らしたまま、ごまかすように山崎が言った。
あまりにも唐突で脈絡がなく、とっさに嘘を吐きました、という風なので笑ってしまう。
おかしかったのと馬鹿らしかったので鼻で笑った高杉に、山崎は拗ねたような目を向けた。甘えるような目だ。そんな目を向けて許されると思っている。高杉がそれを笑って受け止めると信じている。
なのに高杉は、手を伸ばしてその髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜてやるのにも、少しばかり、覚悟を必要とした。こっそりと息を吸って一瞬止める程度には。
山崎の黒い髪に、きらきらと月の光が零れているように見える。髪をかき混ぜられて山崎は小さく笑う。不自然なくらい自然な時間が流れている。
月明かりが教えなかったらきっと、あのまま目を閉じていたな。そう思えば、憎らしいやら有難いやら。
このまま抱きしめてしまおうか迷っている自分の心のありようが、おかしいやら、腹立たしいやら。