[to] 副長
  [subject] 報告
  ビンゴ。会合は後小一時間後に始
  まる模様。まだ全員揃ってはいな
  い様子。人数は現在十五名。予定
  は十八。首謀者分からず。以上。

        ---END---



 音をさせないようにそっと携帯を閉じて、山崎は軽い足音を立てながら何気なさを装って廊下を歩いた。気配も足音も殺してしまえば、姿を見られたときに逆に怪しまれるからだ。厠に行っていただけですよー、と言い訳が出来るような隙を作って、取っていた部屋へと向かう。
 興味本位を装って料亭の女将に聞いた料理の数は十八。
 残り三人揃えば、会合が始まる予定だ。
 屯所では今頃一番隊が万全の状態で待機しているだろう。全員揃って酒が運ばれ、程良く全員に酔いが回るであろう時間を計算して連絡をするまでが、山崎の今夜の仕事だった。
(……知った顔は、なかったな)
 ぎし、と廊下の音を響かせながら山崎は思案する。
(どうせ、攘夷にかこつけた宴会だろう。これを潰したところで何にもならないが)
 それでも、攘夷、という言葉をかざしているだけで刀を向ける対象になる。それが山崎たちの正義だからだ。
(しかしせめてもう少し、知られている程度の名前が出て来ても良さそうなもんだ)
 面白くないなあ、と苦笑してぎしり、と廊下を鳴らす隣、襖の向こうで不意に、人の声がした。


「……さん、そろそろみんな集まってますがね」
「時間まではまだあるだろうよ。そんな急くことはねえ」


 ぎし、と廊下が鳴る。
 山崎は足を止めた。


「はあ、そうですか」
「そうさ。お前は好きに行って、好きに飲んでりゃいいじゃねえか。総大将ってのは、後から姿を見せるもんだぜ」
「はあ……じゃあ、まあ、俺ァ先に、行きますがね。ちゃんと来てくだせえよ」
「さっさと行け」
「へい」


 会話の後少しの間を置いて襖が開く。ひょろりとした背の男が部屋からのっそりと出て、会話の相手を置いたまま襖が再びぱたんと閉まった。
 思わず柱の陰に隠れた山崎は、そっと男の後ろ姿を伺い見る。
 知らない顔だ。
 資料でも見たことがない。
 隠れる必要などなかった。
 隠れていることが見つかれば、何より怪しまれるからだ。
 柱の陰に隠れたまま、それでも山崎は息を殺す。
 男が、宴会場となっている部屋へ姿を消して、再び廊下には山崎一人になった。


 柱の向こうの襖の奥にはひとり男が残っているはずだ。


 山崎は息を殺す。心臓がやたらと早く脈打っている。息を殺せば殺すほど心臓の音が廊下中に響き渡るのではないかと不安になる。
 今、自分が青ざめているのだと、山崎には分かっていた。
 冷たい汗が背中を伝って落ちる。
(あの、声。声音。あの、香り)
 襖が開いた一瞬、ふわりと香った独特な。
(…………はやく、連絡)
 壊れるほどに握りしめていた携帯を開く。パチン、と音がやけに響いて慌てる。
 深呼吸をして、液晶画面に視線を落とす。
 指をボタンの上に乗せて、
(…………)
 軽く、押すだけなのになぜかそれができない。

 よく知る声に、よく知る香り。耳の奥に残って消えないこともあった。体に染みついて落ちないことだってあった。
 部屋を出た知らない男は宴会場に向かって行った。宴会場には攘夷の言葉を振りかざして集っている連中がいる。それらが酒に酔った頃刀を向けて打ち入るために様子を伺うのが今夜の山崎の仕事だ。
 知らない男ははやく来いと相手の男を誘っていた。
 どこに? 宴会場にだ。相手の男はなんと言った?

(……アンタが、首謀者か)

 それが本当ならば嫌という程大きな名前だこれを押さえた山崎は手柄だろうこれを打てば真選組の手柄だろう皆喜ぶだろうだってそれが正義だ。
 だってそれが正義だ。

 ボタンをただ少し押して簡単な文面を作るだけなのに指先が震える。爪がカチカチとボタンに当たってうるさい。やけに響いているような気がする。
 こんな所で隠れているくらいなら早く部屋へ戻る方が安全なのに、足が動かない。
 背中を伝う汗が冷たい。
 けれどはやく連絡しなくてはならない。それが山崎の仕事だ。はやく伝えなくては、今用意している人数じゃあ取り逃がす。


 相手は高杉晋助だ。


「何だ、今日は女の格好じゃねえんだな」

 突然背後から声をかけられ、山崎は勢いよく振り返った。
 振り返り、声の主を見て、後悔する。違う、今のは、飛び退って刀を構えるべきところだった。
 もしくは何でもないように、他人のように振る舞うべきだった。

「…………」
「書生か? いいとこの坊ちゃんってところか」
「…………」
「行きつけの小料理屋にちょっと部屋を取って遊んで、厠に寄って、その帰りか?」
 馬鹿にするように笑って、男は――――高杉は、煙管を口に付け、ゆっくりと吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。
 細い煙がぼんやりと立ち昇る。
 甘い香りがいつもよりも強く、深く昏い。
 山崎は開いたままの携帯をきつく握りしめた。掌に汗をかいている。少し滑る。
 自分が、青ざめているのがいやというほど分かった。目の前が真っ暗にならないのが不思議なくらいだ。指の先が冷たい。なのに頭の中は熱く、芯の方が痺れて何も考えられない。
 じり、と高杉が、一歩山崎に近づいた。

「はやく連絡しねえと、間に合わねえぜ?」

 ふ、と煙が立ち上る。
 にい、と唇の端を上げ揶揄するように言う高杉を、山崎は見つめることしかできなかった。
 否、見つめているのか、睨みつけているのか、定かでない。
 視線の逸らし方、瞬きのタイミングが分からない。呼吸の仕方も分からない。細く吸って吐き出すが酸素が肺まで届いていない気がする。全身の感覚がない。力が入らない。

 甘い深いよく知る香りに耳に馴染んだ低い声。

「……高杉」

 小さく呼んだ。


 酷薄な笑みを浮かべていた高杉の表情がすっと冷えて能面のような顔になる。煙管から細く薄く立ち昇っていた煙がゆら、と揺れて、それを山崎が視認するよりも先に高杉の熱い手が山崎の腕を掴んだ。
 力任せに引かれ、動かし方を忘れた山崎の足が縺れる。倒れた先は当然のように高杉の腕の中で、そして、甘い香りのする、高杉のいた部屋の中だった。
 乱暴に襖が閉まる。
 腕の中から逃れようと顔を上げた山崎の唇に、高杉が真っ直ぐ噛みついたのは、そのすぐ後だった。

「……っ、」
 それは、くちづけではなかった。
 くちづけの上の戯れではなくて、何かをぶつけるように、憎むように、正確に、高杉の歯が山崎の唇を傷つける。
 当然のように血が滲んだ。けれど今山崎の全身からは全ての感覚が失われている。だから少しも痛くない。
 指先が冷えてじんじんと痺れる。握りしめていたはずの携帯が、山崎の手から音を立てて滑り落ちた。


「……頼むから、お前、さっさと俺の目の届かないところで死ね」


 山崎の唇からゆっくりと離れた高杉が、掠れた小さな声で言った。少し、震えてもいた。
 そして、閉じていた目を薄く明けた山崎の頬を撫で、今度は丁寧なくちづけをした。
 滲んだ舌を舐め取って少し血の味のする舌が山崎のそれと絡む。

 部屋に置かれた時計の針がかちかちと小さな音を立てて正確に時を刻んでいく。
 あともう少しすればどこかの部屋では宴会が始まる。

「……た、かすぎ」

 舌を舐め合うようにしながら声を零した。やけに掠れて不格好だ。声の出し方まで分からなくなった。
 頭がちっとも働かないのは近くにある煙のせいだろう。はやく煙管を離して欲しい。頭がどうにかなりそうだ。いっそこれで焼き殺されてしまえばいいのか。甘い香りがいつもより深い。深く、昏く、纏わりついて、もう何も考えられない。

 床に落ちた携帯が着信を知らせて細かく震えた。畳に擦れて低く唸る。嫌な音だ。
 けれどすぐに聞こえなくなる。
 口の中で、耳の奥で水音が響いていて、自分以外の息遣いがひどく近いので、それにかき消されてしまっているのだ。山崎にはそれ以外、もう何も聞こえない。何も。

      (09.06.11) 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす