さく、と草を踏む音がしたので、地面に落していた視線を上げた。
 空気の流れに、わずかに血の匂いが混じる。
 火を付けて間もない、まだ長いままの煙草を捨て、足で踏みにじり火を消しながら土方はゆっくりと唇を開いた。
「山崎」
 静かなその声に、足音の持ち主が姿勢を正したのがわかった。
 暗闇で姿は見えないが、わかった。土方が静かに声をかければ、彼はいつもそうするからだった。
「ただいま戻りました」
 黒い装束が闇から浮き出て人の形になるより、血の匂いが空気に濃く漂う方がわずかにはやい。
 黒い着物に身を包んだ山崎は、むせかえるような血の匂いを連れたまま土方の前に立ち、軽く敬礼をしてみせた。
「ご苦労」
 どうだった、と聞けば、山崎は軽く眉を寄せる。悪趣味な質問ですね、と苦笑交じりの文句が返った。
「一応、自分のやったことが悪いことだとは、わかっていたみたいですよ」
「大人しく斬られたか」
「刀は抜かせましたがね。今朝まで一緒に飯を食ってた人間に斬りかかってくるほどの、覚悟はなかったようです」
「そうか」
「そうです。……副長はなぜここに?」
「さあ」
 素っ気なく答えて踵を返せば、賢く忠実で生意気な土方の飛び道具は、ぴょんと軽い足取りで土方の隣に並んだ。
 黒い着物を着ている。
 血の匂いがする。
 どのくらい返り血を浴びたのか、夜に黒い衣装ではわからない。
 ただ、確実に血液の持ち主は死んだだろう。
 無性に山崎の頭を撫でたくなり、けれど手を少しあげたところで、土方は顔を顰めて動きを止めた。どうせ髪もごわごわと血に汚れているだろうと思ったからだ。さらさらとした優しい手触りではないだろう。
 土方が顔を顰めた理由に気づいたのか、山崎が苦笑して、すいません、と言った。
 細い声だった。
「……謝ってんじゃねえよ」
「はは、すいません」
 謝ることがあるとするならば、それは俺の方だ。という言葉を、土方は喉の奥に流し込む。
 謝ることが、どこかにあるだろうか。何が正しくて何が間違っていて誰に何を謝罪すればいいのか、土方にはよくわからない。あるいは山崎なら、その答えを知っているかも知れなかったが、もし自分が悪いとするならば山崎はけっしてそれを口にしはしないだろう、と知れているので、土方は結局、何も言わなかった。今この場では、きっとそれが、正しいことだということくらいは、わかっているのだ。



 部屋に帰ろうとする腕を掴んで私室に引っ張り込めば、山崎は珍しく戸惑ったような様子を見せた。座れよ、と促せば、汚れますよ、と言って拒む。
「だァら、きれいにしてやろうってんだよ」
 用意していたタオルを広げて土方が言えば、山崎はたいして大きくもない目を限界まで見開いて、ええ、と高い声を出した。
「来い」
「いや、いいですよ、何言ってんすか」
「つって、そのまんまじゃ寝れねえだろうが」
「自分の部屋で自分で始末しますよ」
「いいから」
「勘弁してくださいよー」
「なんでだよ」
 本当に情けない顔をして山崎が困っているのが妙におかしくて、笑ってしまう。突っ立ったままの山崎の手首を掴んで勢いまかせにひっぱれば、バランスを崩した山崎はあっさり土方の腕の中におさまった。
 血の匂いがする。
 苦い、尖ったような匂いだ。
「ちょっと!」
「山崎」
「あんたが汚れるってば! もー……」
「ごめんな」
 暴れる体を押さえこみ、囁くような、小さな声で落とした言葉に、山崎はぴたりと動きを止めた。

 真っ黒い着物に真っ黒い帯。
 血を隠し、闇夜に紛れるそれが、喪服の意味合いを持っているのだと、気づいたのはいつ頃だったか。
 何が正しくて何が間違っているのかわからない。謝るべきことが本当に存在しているのかどうかも、分からない。正しいことなのかも知れない。当たり前のことなのかも知れない。それでもやりきれないので謝る。それは山崎のためではない。自分の心を軽くするためだと、土方は知っている。
 自分が楽になるために抱きしめて謝るのだ。それだけだ。
 抱きしめていた体をゆっくりと離して、山崎が何か言うより先にタオルを山崎の頭にかぶせる。ごしごしと擦ってやれば、山崎が小さな笑い声を上げた。
「そんな、渇いたタオルでいくら擦っても、落ちませんよ」
「もう風呂の火落ちてんだから、仕方ねえだろ」
「いいですよ。水でもかぶってきますから。その方が俺も落ち着くし」
「山崎」
「土方さん。勘違いを、しないでくださいね」
 ごしごしと乱暴に髪を拭く土方の手をやんわりと止めて、山崎がぐしゃぐしゃになった前髪の隙間からちらりと目を覗かせる。
 口元が笑っている。
 それはいいことなのだろうか。あるいは。
「言ったでしょう。あいつは、一緒に買い食いしたり愚痴を言い合ったり相談ごとをまじめに聞いてやったり朝飯を一緒に食ったりしていた俺のことを斬る覚悟がなかっただけで、俺は、あなたのためならどんなに親しい人間だって斬る覚悟を持ってるって、それだけだ」
 いっそ誇らしげな顔をして、山崎は笑って見せる。返す言葉を持たない土方からそっと離れて立ち上がると、くるりと踵を返してしまう。
「山崎」
「土方さん、俺はね」
 襖に手をかけ、背を向けたまま山崎は、
「あんたが、俺を門のとこで待ってくれてただけで、それだけで、どんだけ嬉しかったか、知れません。土方さんが全部分かってくれてるだけで、俺はもう、他はどうでもいいんです。俺があんたの刀だってこと、それが」
 俺の矜持だって言えば副長は笑いますか。
 肩越しに振り向いて、ぽつりと山崎は言った。
 口元は笑っているが、寂しそうな顔をしている。
「……上出来すぎて、笑うかもな」
「ははは、うん。まあ、困んないでくれたら、いいです」
 着替えたらまた来るから寝ないで待っててくださいね、と、ひどく勝手で生意気なことを言って、山崎はするりと廊下に姿を消した。襖を閉める音も、足音もしない。
 ただ、山崎を抱きしめていた土方の着物が血で汚れていて、畳も少し汚れていて、血の匂いがまだ残っているので、さっきまでのことは夢ではなかったと思うくらいである。
 夢ではなかった、と思うために、刻み込むために、山崎はああも派手に血を浴びるのだろうか。

 血で汚れたタオルに視線を落としながら、土方は考えている。
 何が正しくて何が正しくなくて自分はどうするべきなのかという、永遠に答えの出ないであろうことを、じっと考えている。

 山崎に聞けばどうせ、正しいのは土方なのだと断言するだろう。土方はそれに甘えている。
 だからこの思案に意味はない。賢く忠実で生意気にやさしい彼が戻ってくるまでの、せめてもの時間潰しだ。

      (09.07.2)




山崎が血をつけて帰ってくるお話、というリクエストだったんですが、なぜか勝手に「血をかぶって帰ってくる」と脳内変換していたせいでこんなになりました。結局いつものような話です。
山崎は土方の道具である、というのが好きで、山崎自身がそれをひどく望んでいるととても萌えます。土方はそれをいまいち割り切れていなかったらとてもいい。
人間らしい土方さんを甘やかしてあげる、土方さんにだけ優しい山崎とか好きです。
リクエストありがとうございました!