かつん、と下駄がアスファルトを掠め、蹴られた小石は遠くに消えた。
薄い雲に月も隠れてぼんやりと暗い夜。明かりはいらない。暗い方が都合がよい。互いに夜目が利くので問題はないし、姿がたとえ見えなくても、気配が傍にあるだけで十分だった。
かつん、と下駄が鳴る。手持無沙汰なときに靴をかつかつ地面に当てるのは、山崎の癖だ。外で会うことがなければ、気づかなかったろう。
「やっぱり夜は、外の方が涼しいね」
錆びた階段の上の上。人気のないビルの影。手すりに腕をつき真っ黒な空を見上げながら、満足げに山崎は言った。
「そうか? 蒸し暑いだけだと思うがな」
「でも部屋に籠ってるより、ずっといいよ」
あの部屋クーラーないんだもん。贅沢なことを言って、山崎は少し笑った。湿気を多分に含んだぬるい風が少し吹いて、山崎の髪を揺らす。
そんな山崎の姿を見ながら、高杉は煙を細く吐き出した。
白い煙はゆらゆらと黒い空へ立ち昇る。
山崎が再び蹴った小石か、あるいはアスファルトのかけらが、かんかんと高い音を立てて錆びた階段を転がり落ちて行った。
静寂。
山崎が下駄を鳴らす音と、時折遠くから聞こえるバイクの騒音以外は、ほとんど何も聞こえない。その合間にぽつりぽつりと交わされる会話も、さして意味を持たない。
部屋にいるときと同じようでいて、外にいる分だけ不自然な空間。
何をするためでもなく、ただ、互いの気配を感じるためだけに、こうしているのだった。
「山崎」
高杉が呼べば、山崎は振り向いて少し首を傾げる。呼べば、当たり前のように反応が返ってくる。ひどく自然で、とても不自然だ。高杉はそのまま指先を軽く動かして、山崎を招いた。錆びた手すりから手を離し、するりと山崎が寄ってくる。
自分が座っている場所より一段低い場所へ座るように促せば、やはり山崎はおとなしくそれに従った。口の端が上がっている。座り、高杉よりも頭ひとつ分小さくなった山崎は、甘えるように高杉を見上げて、はっきりと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「何?」
「危ねえぞ」
「何が?」
「手すり」
「えー?」
「錆びてただろ」
「大丈夫だよ、別に」
「落ちても助けてやんねえぞ」
「助けてくれるなんて思ってないよ」
「思っとけよ」
「何それ」
くすくすと、細く高く小さな声で笑いながら、山崎は高杉の膝に頭を預ける。黒い髪が高杉の着物の上に広がる。赤紫に細い黒。
それを指先で梳きながら、高杉は指の間で弄んでいた煙管をそっと小さな煙草盆の上に置いた。自由になった両手で、今度は山崎の髪をかき乱すようにする。
「痛い痛い痛いっ」
「もつれてんな」
「すいませんね」
「伸びたか」
「切りに行く暇もなかったしねー」
忙しいんですよう、と、拗ねたように山崎が言うのを、高杉は苦笑しながら聞く。
お前はいつも忙しいな、という言葉を口にしなかったのは、彼が忙しい理由の半分程度は自分が作っているものだと知っているからだ。代わりに、
「忙しいなら、休んでろよ」
言った。忙しいのなら別段、夜更けにわざわざ抜けだして、こんなところに来なくてもいいじゃないか。
「忙しいから、来るんですー」
「あ?」
「忙しいから、見つけた暇で会っときたいんだよ」
「……へえ」
「あ、感動が薄い」
「感動なんてねえだろ」
「しろよ」
「しねえよ」
ひでえ人、と笑いながら山崎が言う。高杉はその笑い声を聞きながら、山崎の髪を両手ですくい、ばさばさに乱れたそれを指先で梳っていく。
自分の口元は今緩んでいるだろうか。もしや自然に笑っているだろうか。
山崎は背を向けているし、辺りは暗いし、人気はないし、もしも笑っているのならばそれでもいい、と、高杉は考えながら、山崎の髪をまとめていく。
きっと、これは夢なのだ。
触れていられるのも、笑い声が聞けるのも、きっと、幸せな夢なのだ。
だから自分が微笑んでいても、何もおかしいことは、ないだろう。
袂から取り出した飾り紐をつかって、まとめた髪を結っていく。本当に切りに行く暇がないのだろう。鎖骨に届く程伸びた髪は、量の多さもあってなかなかまとまらない。
高杉がそれを丁寧に、零れてはすくい、零れてはすくい、細い飾り紐一本でまとめていく間中、山崎はじっとしていた。
時折、二人の間にぬるい風が吹く以外、何の邪魔も入らない。
ああこれは夢なのだろうな、と再確認する。
「……もういい?」
「まだじっとしてろ」
「はーい」
痛んだ髪をきれいにまとめあげ、小さな団子を作り紐で飾り終えた後も、しばらく高杉は指を離せなかった。髪をまとめている紐を指先でなぞる。黒い髪に赤い糸。
生まれた時から小指に絡まっていて、世界のどこかにいる誰かにその端を握られているという、それも確か、赤い糸ではなかったか。
「高杉」
「……ああ、もういいぜ」
「ありがと」
でも俺この後寝るだけなんだけどね。言いながら山崎の指が、まとめられた髪に恐る恐る触れる。ざらりとした紐の表面をなぞって、その動きを止める。
「……いつも思うけど、あんたの着物の袂はどっか異次元に通じてるわけ?」
「かもな」
「こんな紐じゃなくて、タイムマシンとか出してよ、今度」
「今度な」
「やったね。あと俺あれが欲しいな。空飛べるやつ」
「飛んでどうする」
「どうするとかじゃなくてロマンですー。あとはねー」
「まだあんのか」
当たり前じゃん夢の道具だよ! と笑いながら山崎は言って、言った後、少し黙った。俯くようにするので、白いうなじが高杉のもとに曝される。
優しく口づけをしたいような、ただ触れたいだけのような、歯をきつく立てたいような、刃物を押し当て勢いよく引きたいような、欲望がないまぜだ。
どうしてくれよう、と高杉は唇を引き結ぶ。
反対に、黙っていた山崎が唇を開いた。
「運命を変えれる道具ってあるのかなあ」
静かに暗い場所なので、それはやけに響いて聞こえた。
「……ないかな」
「……さあな。ねえだろ」
「そっか……。そうだよねえ。そんな道具があったらさ、もっとこう金持ちの家に生まれるとかさ、美人な女社長に見初められて玉の輿とかさ、夢見放題なのに!」
「……くだらね」
「ひでえ。ロマンだよ、ロマン」
くすくすと、細く高い笑い声を山崎は押し殺す。
やけに明るい声が響く。けれど俯いたままなので、白い首は、相変わらず高杉の前に曝されている。
指で、つ、と撫でれば、一瞬肩を強張らせた山崎が頭を持ち上げ、ゆっくりと振り向いた。
まとめたはずの髪が、幾筋かはらりと零れ落ちている。
高杉は、それを優しく耳にかけてやる。山崎は嬉しそうに笑う。けれど本当はそれも少し、寂しそうなのだ。
短い睫毛がもったいぶるように動いて、薄い瞼が目を隠すのを待って、高杉は山崎の頬に指を滑らせた。
月はいつの間にか厚い雲に隠されて、すっかりと姿を消している。
高杉は目を細めて、山崎の唇にそっとくちづけた。
山崎の下駄が錆びた階段を掠めて高い音を立てた。
月のあかりはもう届かない。ただただ静かで、辺りは暗い。
けれどあかりは必要ない。暗い方が都合がいい。
夢を見るのに、容易いので。
山崎の長い髪を結う高杉、というリクエストを頂いたので書きました。後ろから髪をいじるってすごく甘ったるくて親密でぞわっとするほど優しい空間だなあ、とすごく思うのですが、それが少しでも伝わっていれば…いいな…。
高山の高杉さんがあまりにも山崎を好きでいることによって不幸な気がしたので、少しでも幸せな時間があればいいのにな!と思って書いた話でもある。
沿えているかわかりませんが、心躍るリクエストありがとうございました!