優秀であるということは、つまり、公と私を切り離して考えるのが上手い、ということだ。
そして、山崎退は仕事に対してとても優秀である。
けれどそれは、山崎が公私を分けることが上手い、ということとは、少し違う。
「まさかこんな所で会うとは、思わなかった」
にこにこと笑って、高杉の持った杯に酒を注ぐ、山崎は仕事のために私を殺して公に徹しているのでは、ない。
「時間まで少し間があったし、あんまり店の人間といて何か漏れてもまずいし、困ってたんだ」
ふわ、とさりげない甘さで香が香る。溶けるように空気に滲む女物の柔らかい香り。
長く伸びた髪はおそらく付け毛だろう。肩の上をするりと滑って、絹と擦れて音を立てた。
小さく動く赤い唇を、高杉は少し目を細めて見つめている。
細い黒い髪が、少し乱れて頬にかかって、それが、肌の白さを強調させている。白粉で隠された下の肌はもしやもっと白く冷たく甘いのではないかと、思わせる何かが、山崎にはある。
男女の別がないように、山崎には公私の別がない。
ただ、何をどうするべきか、本能的に知っている。目的を達成するためならば、私ごと全て相手の信念に共感し迎合し変節することができる。
危うく脆く愚かでくだらないその行動を繋ぎとめる唯一の細い糸が、山崎の首に巻きついているのが見えはしないかと、高杉は赤く動く唇から視線をずらし、山崎の首筋に目をやった。
軽く手をかけて力を入れればあっさり折れそうだ。
「高杉?」
杯を持ち黙ったまま動かない高杉を不思議に思ったのか、山崎が首を傾げ、高杉の顔を覗き込むようにした。
しゅる、と絹が耳触りのよい音を立てる。
良い着物を着ているので、まるで、上等の人間のように見える。
「今日は遊女か」
「違うよ、芸者。さすがに着物は脱げません」
でもこんな店だし、多分口まではオッケーなんだろうなあ、と、不穏なことを事もなげに言いながら、山崎はきょろきょろとあたりを見回した。
掃除こそ行きとどいているが、作りは決して立派ではない。雰囲気作りのために控えめに灯されている明りも、色気があるというよりはどんよりしている。
少し息を深く吸えば、山崎の甘い香りに混じって、空気の黴臭さが鼻についた。
下等の人間しか寄りつかないような、細い路地の奥の奥の奥にあるような、怪しげな店なのである。
つまりは高杉のような人間が根城にするのに容易く、山崎のような人間にとっては格好の餌場だ。
「よかったな。俺みてえな大物に会えて」
揶揄してやりながら、なみなみと酒を注がれた杯を煽る。零れた酒が顎を濡らして指も汚す。
何の気なしにその指を突き出せば、当たり前のように山崎が笑って、濡れた指を赤い口に含んだ。
場馴れしている。ぞくりとする。
「……今日は、別にあんたが目当てじゃないもん」
軽く酒を舐め取った後、着物の袂から手ぬぐいを出して山崎は高杉の指を丁寧に拭った。
少し目を伏せてそうするので、安っぽい明りに照らされて睫毛が頬に影を作る。
「なおさら、良かったじゃねえか。予想外の手柄で」
「関係ないよ。今の俺は単なる芸妓で、俺を指名してくれる物好きな常連客が聞いてもないこと話してくれるのを待ってるだけだし」
あんたは関係ないよ。もう一度、自分に言い聞かせるように強く言って、山崎は伏せていた視線を上げた。
自然、目が合う。視線が絡む。山崎の目が少し笑う。
「でも、会えてよかった。うれしい」
事もなげに言う声が、甘い。山崎の手が、汚れを拭われた高杉の手を握ったままであることに高杉は気づいて、背中を冷たくする。
山崎退は優秀である。
公私をきちんと分けているから、ではない。
頭がいい。自分を追い込まない。逃げ道を知っている。
そして信念がない。
だから必要とあらば自分のことだって騙すことが出来る。
だからばれない。暴けない。山崎退は優秀である。
「高杉? ……ああ、名前で呼んだ方が、いいかな」
再び黙ってしまった高杉に苦笑して、山崎の手が高杉の頬に伸びた。
その手を思わず掴む。ぱしん、と音が響いた。
握り込んだ指の先は、やはり冷たい。白い肌そのままの体温だ。
「……晋助さん」
ふわ、と山崎は自然に媚びるような笑みを作った。
握った手を軽く引くだけで、山崎の体が軽い動きで高杉の腕の中におさまる。
長い髪が、着物の上を滑る。
長い髪、甘い香り、色づいた唇、柔らかな笑み、うれしそうな声。
どれが本当なのか高杉には分からない。
全て偽物なのかもしれない。あるいは、もしや、全て本物なのかも知れない。
高杉には分からない、が、きっと、山崎にも、分かってはいないだろう。
「……俺は関係ねえと、言ったな」
「うん、関係ないです。……わたくしはただのしがない芸者です」
腕の中で戯言を言って山崎がくすくすと女のように笑った。
「時間が少し、あると言ったな」
「はい。他のお客様とのお約束までには、まだ、すこうし、ございます」
そうか、と低く呟いて、高杉は山崎の頬に掌を押し当て、その顔を上向かせた。
目尻を少し赤く染め、睫毛を震わし目を伏せているのが、やけに手慣れていて、出来過ぎている。
目的のためならばこんなことを慣れるほど何度も、出来る人間なのだ、と、再確認をする。
自分をも騙してまでそうするのは何故だ。
高杉は目を細めて、山崎の首筋をじっと見つめる。
細い、鋭い細い糸が、首輪のように山崎の首に絡みついているのではないのか。
その糸を先を、ただ一人の男が握っていて、山崎の信念は山崎の中にではなく、その男の中にあるのでは、ないか。
糸を切ればいいか。
そうすればこれは自分のものになるだろうか。
思案しながら、高杉は薄く開いた山崎の唇にゆっくりとくちづけた。白粉の匂いと紅の匂いと甘たるい香が混ざりあう。紅が濃く引かれ艶めかしい山崎の唇はべたりとした感触を返す。
そのまま軽く体重をかければ、拍子抜けするほどあっさりと、山崎の体は畳の上に転がった。
唇を飾る紅を舌で舐め、唇を離せば、山崎がとろんとした目で高杉を見返す。
「逃げねえのか」
「どうして?」
小さく、山崎が笑った。
「こんな店ですから、こういうことも、あるでしょう」
あんたには別に脱がされたって、どう困ることもありゃしません。
ふざけた口調のまま言って、山崎の指が高杉の腕にすがりつく。
促され浮かされ高杉はもう一度山崎の唇を塞ぐ。鼻にかかった甘い声が鼓膜を震わして背筋が痺れる。
これは一体、山崎にとって、どういう意味を持つのか。
公だろうか、私だろうか。善だろうか、悪だろうか。
曖昧で、不安定で、おぼろげで、薄気味が悪く、優秀である、この生き物が自分のものになるということは、ありえるのか。
細い白い首を、軽く爪で引っ掻いた。
目に見えない糸がそうしてほどけるのならいいのに、と、少し考えたからだ。
首輪を、手綱を、引きちぎって、自分のものに出来ればいい。
念じるように思いながら、白い肌に軽く爪を立てる。山崎にとってそれが痛いのか、気持ちいいのか、それすらよくわからない。
目が合えば少し笑った。そして白い手が伸びて、甘い香りのするそれが、高杉の頭にふわりと触れる。
甘やかすようにあやすように慰めるようになだめるように、掌が高杉の髪の上を滑って、冷たい指先が高杉の髪を絡めた。
「そんな顔、しないでよ」
一体自分は、どんな顔をしているというのだろう。
湧きあがった不安定で拠り所のない感情を振り払うように、高杉は山崎の足に手を伸ばした。こんな場所には到底似つかわしくない上等の着物の裾を割る。
正確なのかいまいち信用のできない時計が、音だけは規則正しく、時間を刻んでいた。
少し時間があるというのは、どれくらいだ、ということを、高杉は聞きあぐねている。
山崎は時間を少しも気にする風もなく、眉根を寄せて甘い息を吐いている。
糸はもしや、簡単にほどけて、不安定で繊細で行き場のないこの生き物は自分の手の中に落ちてくるか、と、甘美な考えが高杉の胸を満たしていく。
山崎の指が縋るように、甘えるように、頼るように、慈しむように、高杉の髪に触れている。
時折優しく、指が動く。
公も私も善も悪も関係がなく、ただ、愛するような、仕草である。
「高杉の頭を撫でる山崎」というリクエストなのですがおかしな方向にすっ転びながらかろうじてリクエストに引っかかっている、というような感じですみません。
公私を切り離して考えてるから優秀なんじゃなくて、公私も善悪もなく、言われたことを正義だと信じて飄々と従えるので優秀なんだよ、みたいな、相変わらず気持ちの悪い山崎が書きたかった。
この正確さと曖昧さでもって自分のことも殺すのだろうなあと高杉は理解していて、実際その通りである、というような、そんな高山も萌えるんです。
相変わらず好き勝手にやりましたが、許していただければ嬉しいです。リクエストありがとうございました!