正義というのはえらく便利な言葉だ。これが正義であると信じるだけで主張するだけで、悪いこともみんないいことになるのだ。俺がこうして笑って生きていられるのも俺に正義があることになっているからだ。世の中の正義が俺になければ、今頃俺はとっくに死んでいるだろう。人をもう数え切れないくらい殺している。数え切れないくらいの人のしあわせな人生を奪っている。罪である。けれど俺は死刑にならないしそもそも罪人ではない。なぜか。俺に正義があるからだ。
(えらくまあ便利な言葉でくだらなくって吐き気がする。別に俺は俺のしてることが絶対的に正しいなんて信じちゃいねえのに、正しいということになっているから、誰も罰してくれないだけなのだ)
(実は俺は人を殺すのが楽しくて上手に斬れたときなどは嬉しくなる。斬った後の死骸をまじまじと見て、ああ上手く斬れたなあとか、もっと深く斬れたらよかったなあとか、踏み込みがあめえなあとか、そういうことを思ったりするのだ)
「踊るように人を斬るんだな。そのうち歌でも歌うか」
揶揄するように言ったその言葉は俺にはとても心地よかったけれど同時に気分が悪かった。そんなわけないじゃないですか人を殺すのは悪いことです俺は正義のために仕方なく人を殺すのです。
「おもしれえな、お前。俺のところに来るか」
左目のないうつくしい男。甘い深いくらい香りの中に少し血の匂いが混じっている。ああ、人を殺し過ぎて、俺はとうとう鬼に魅入られたのだ、と、思った。
布のかけられたそれがそっと目の前に置かれても俺が少しも困惑しなかったのは、どうせいつものように、着物や簪や帯や香や、もう遊んでいるとしか思われない女にするような贈り物の一種だろう、と思ったからだった。
なので薄紫の布がはらりと取り去られ、一尺五寸の脇差が姿を見せた時には、さすがに驚いて息を呑んだ。
「どうだ」
失った左目(眼球がないのか視力がないだけなのか醜い傷があるだけなのかは知らないが、どうせ使ってはいないので、失ったと言って差し支えがないだろう)を包帯で隠した男は薄い唇を笑みの形に歪め、俺の驚きを面白がるような声音で言った。
男の名前は高杉と言う。攘夷という言葉のもと、この世界中を焼き尽くして喰らい尽くして深い暗闇に引きずり込むことが良いことだと信じている人間で、今の世界から見たらおそろしい異端者で平たく言えば犯罪者だ。
「……何、これ」
「脇差欲しいって言ったろ、お前」
ということは何だ、これはやはり、自分への贈り物に間違いはないのだろうか。俺は渇いた唇を舌で少し湿らせて、眼前に置かれた脇差に視線を注いだ。
黒い鞘に紅色の下緒が鮮やかに映えている。きれいな色だ。俺はその紅色がひどく気に入った。渇いて行く血の色に似ている。黒い鞘は、俺が人を斬るときに着ている黒い着物に添えれば、気づかれず溶けて闇に沈むだろう。
そろ、と手を伸ばして、触れる直前で高杉を伺い見た。相も変わらず楽しげに見ているので、触ってもいいのだろうと解釈をしてそっと手に取る。
掌にしっくりとなじむ重さ。鞘から抜いた刃は、部屋の薄暗い明りを受けてゆら、と一瞬揺らいだように見えた。研ぎ澄まされた鈍色。これはきっと、皮をきれいに裂いて肉を鮮やかに切り取るだろう。
高杉は最初に出会ったときから俺に執着していた。正しく言えば俺の刀の扱い方に執着していた。踊るように人を斬るなと言われて俺は確かに気分を害したはずなのに、それでもその響きが心地よく、わかってもらえたのが嬉しくて、少し懐いてしまったのが、間違いだ。きれいな殺し方をするんだな、と言う言葉は、どういう意味だったのかわからないが、俺には褒め言葉に聞こえた。そうでしょう、と自慢したい気分になった。うれしかった。
それは多分間違いだった。うれしいと思ってはいけなかった。
「俺のところに来い。俺のものになれ」
高杉は薄く笑っていった。人を喰らって何百年も生きる鬼のようだった。あまりにもうつくしかった。
でも俺は本当はうれしいと思ってはいけなかったし、付いていきたいと思ってはいけなかった。
俺は正義の組織にいて、だから、殺す相手をきちんと選びさえすれば誰にも叱られず蔑まれることもなく殺し方の研究ができるのだ。高杉は犯罪者だ。正義ではない。悪いことをしている。悪いことのために人を斬る。世間では、そういうことになっている。
高杉の傍で人を斬れば、それは悪いことになってしまう。犯罪になってしまう。だから俺は唇をこそっと噛んで首を横に振った。
くだらねえことではあるが、世の中はそういうことになっているのだ。
俺の仕事は悪を斬ることで悪とはつまり犯罪者である高杉のようなものを指すのだけど、何で俺はこの人を斬れないしこの人の居場所を誰にも教えられないんだろう。
刃を鞘にそっと戻して、脇差を畳の上に静かに戻す。
ちら、と前髪の隙間から高杉を覗けば、目が合う。心臓が跳ねたので目を逸らす。
高杉が、俺に執着をするのは、俺の刀の扱い方が高杉の好みだからだ。人を斬るのが楽しいという犯罪者じみた、というかもう完全に犯罪者以外の何でもないこの気持ちを、高杉が見抜いたからだ。同じ匂いを嗅ぎ取ったからだ。
だから俺のことを欲しがるし、こうやって俺に揺さぶりをかけたりする。おもしろがっている。それで俺が転がって高杉の手に落ちれば、それはそれで、いい道具になると思っているのかも知れない。
では俺は何でここで高杉とたった一歩分の距離をあけるだけで向かい合っているのか。その気になって腕を伸ばせば触れられるだろう。そんな距離だ。覚悟一つで殺せたり殺されたりする、そんな距離だ。
しかも今ふたりの間には、よく斬れそうな武器がある。
「……なんで、こんなことすんの」
なんで俺はここにいんの。という疑問をすり替えて口にした。
高杉は悪いやつなので、とりあえず高杉のせいにしておけば、俺は救われる。正義は俺にあるからだ。
「お前のために誂えた。なかなかいい出来だろ。きっとよく斬れるぜ」
高かったんだから、もっと嬉しそうな顔をしろよ。という声はには、笑い声が混じっていた。俺は俯かせていた顔を少しだけあげて、高杉の顔を見た。
目が合った。どうした、という顔を、高杉はした。
喉の奥に何かせりあがって一瞬息が詰まった。肺のあたりにも何かが詰まっているような気がして、ずんと重たい。
「だから、何でこんなもんくれんの」
何かが重たく引っかかっているので、声が低く掠れた。それになぜか泣きたくなって、いつかと同じようにこっそりと唇を噛んだ。
高杉は少しの間答えずにいて、それから、小さく溜息を吐いた。
薄く唇に苦笑が浮かぶ。
「好きだからだろ」
…………心臓が、止まるかと思った。
「別に……別に、俺の斬り方なんて、そんなに珍しいもんじゃあ、ないでしょう」
思わず目を逸らした。
ゆっくりと吸ってゆっくりと吐きだした息が少し震えて慌てた。じわ、と何かあったかい液体が体の中に広がった気がした。心臓の動きが少しおかしい。もしかしたらさっき出された茶に何か入っていたのかもしれない。やはり敵の出すものは簡単に口にするものではない。だって高杉は悪いやつなのだ。
「俺の斬り方が、そんなに好み?」
畳の上の脇差を手元に寄せ、それに視線を落としながら言った。
これはいけない。ちょっと心が揺らいでいるのかもしれない。そんな。ありえない。ばかなことだ。
脇差をそっと持ち上げ、膝の上に置く。
今すぐ抜いて斬りかかるのがきっと俺のすべきことだ。そうでなければ俺は正義ではないだろう。
どうすれば、と奥歯を噛みしめた俺に、突然高杉の笑い声が降った。ケケ、と高く響く笑い方だ。何をいきなり、と驚いたが、すぐに、さっきの俺の言葉に時間差で笑いがこみ上げたのだろうと知れた。
何を笑うことが、あったろうか。
「お前さあ」
「……なに」
「監察なんだろ」
そんなことを、言ったことがあったろうか。ないような気がする。敵だとは伝えてあるが真選組だとは教えてない。でもまあ知られているようなので取り繕ってもしかたないだろう。うなずく。
「だったら何」
揺らぐまい、とするので、低い、不機嫌そうな声になる。
しかし高杉はそれを気にすることなく、おかしそうに笑い続けている。
「だったら、よお」
ふ、と視界が翳って、驚くより先に高杉の指先が俺の前髪に触れた。指先から甘い深いくらい香りがする。血の匂いは、今日はない。
「言葉はもっと、深読みしとけ」
顔を動かさないまま、視線だけ上にあげれば、高杉の指の間から俺の前髪がさらさらと零れるのが見えた。
その合間に見える、やわらかく、甘い笑み。
膝の上の脇差を、ぎゅっと握った。視界の端に映った下緒が、流れ出る血のように見えてぎょっとした。
唇を噛む。きつく噛む。高杉の指がもう一度俺の髪をすくって零す。甘い香りがする。
好きだと叫びたいような気がする。けれど好きだと叫びたい、その気持ちが、どういうものなのかわかりかねている。
脇差をきつく握る。何でこんなもの贈るんだろうと憎むように思っている。
これで斬って殺すのは他の何でもなく高杉の抱く信念なのに。
それが悪だというだけで、俺は好きだという気持ちさえ刺し殺す。わからないふりをする。
吐き気がするほどくだらねえが、世の中はそういうことに、なっている。
「山崎のために何かを作る高杉」というリクエストを元にしたはずなんですが、今となってはリクエストいただいて書きました!というのもはばかられます。
普通に考えると高山は、山崎だけにいっぱいしがらみがあって、高杉は別に山崎を無理に攫っても誑かして落としても何の痛手もないんだなあ、と改めて思いました。しかし素直な高杉さん難しい。
なんだかすみませんでした。書けて楽しかったです。ありがとうございました。