一日目、彼はそこに座っていて、高杉の顔を見ると一瞬目を瞠りその後何事もなかったかのようにまた空気に溶け込むような何の特徴もない町人の姿へと戻った。
二日目、話しかけた高杉にそつなく応じながら、少しその顔がこわばっていた。冷茶の入ったグラスを持つ手に力が入りすぎていて、思わず笑い出しそうだった。
三日目、侍と会話をするときの町人の持つ適度な緊張感だけ表に出して、あとはへらへらとしていた。
四日目、高杉が名前を言い当てて、彼の顔は青ざめた。もうそれは、見事に顔色が変わったので、それでその仕事が務まるのかと高杉が心配になったくらいだ。
五日目、俺のところへ来い、と高杉が勧誘し、彼は呆れたような顔をした。何と答えるかと期待して待てば、「仕事中なので」と、男に声をかけられた女のような返事を寄越したので、高杉は声をあげて笑った。彼は少し顔を顰めていた。
六日目、とりとめもない話を繰り返し、彼が少し笑うようになった。緊張が少しほどけている。顔見知り程度の距離感になっている。この先どう動くのだろう、と高杉は少し興味深く思って、本当に手に入れてしまうのも面白いかも知れないと思いだした。
一週間経って、欲しいと思うようになった。
刀を使えるのかどうかもわからない。諜報で役に立つのかどうかもよく知れない。
それでも、今いる組織の情報は、確実に手に入るだろう。それだけで高杉にとっては大きな収穫だし、仕事の仕方などは、教え方でどうとでもなるだろう。
この理由は、言い訳じみているだろうか。
高杉は考えるが、答えは出ない。何を隠したくて言い訳をしているように聞こえるのかは、定かでない。
ひと月経った。
彼は今日も、そこにいる。
「よお」
「ああ、お侍さん。今日もいい天気ですね」
まったく慣れた様子で挨拶をして、山崎は冷茶の満たされたグラスを両手で握りながら、高杉を見上げた。少し座る場所をずらし、長椅子に高杉がひとり座れるだけの空きを作る。
「今日も精が出るな」
「おかげさまで」
にこにことそつなく笑いながら、山崎はゆっくりと茶を喉に流し込む。それを視界の端に捉えながら、高杉は店の中に声をかけ、山崎と同じ冷茶を注文した。
大きな傘によって店先に作られた日影は、日差しこそ感じさせないが、気温まで下げてはくれない。
今日は天気がよすぎて、一段と気温が高い。
「暑ぃなァ」
「天気予報ではなかなか派手な最高気温でしたから」
「それはそうと、懐に物騒なモンが見えてるぜ、町人さんよ」
「いやいや、お侍さんのお腰の物には負けますよ。お恥ずかしい限りです」
高杉の言葉に一瞬ぎくりと空気を強張らせた山崎は、すぐに何事もなかったように笑顔を浮かべ、懐にしまい込んだ短刀の位置をそっと正した。
想像した通りの山崎の表情に、高杉は思わず低く笑う。山崎はそれに軽く眉を上げ、少し尖らせた唇に冷たいグラスを当て、傾けた。
カラン、と涼しく氷が鳴る。グラスについたしずくが重さに耐えかね山崎の膝の上に落ちる。水滴の落ちた一点だけ着物の色が濃くなる。
じりじりと音がするかのように日差しが暑い。影の色が濃すぎて、このまま焼けついてしまうのではないかと思う程だ。肌はじわじわと汗をかいていく。
それでも蝉の声が聞こえないのは、周りに木がないからで、人の気配がうるさすぎるからだ。
店の奥から若い女がグラスを持って出て来、高杉にそれを差し出した。軽く例を言って受け取る瞬間、女の指が高杉の指に触れる。自然な動きだったが、女の媚びるような目でわざとなのだと知れた。
高杉は顔をそむけ、冷たい茶を喉に流し込んだ。
女は少しの間高杉の後でそわそわしていて、それから諦め奥へ下がって行った。
「おモテになりますね」
揶揄するように、山崎が言った。そちらに目をやれば、呆れたような顔をしている。
「羨ましいか」
「別に。毎日飽きもせず定刻に通っていれば、自分目当てだと勘違いをしもするのでしょう。若い女ってえのは、そういうもんですよ、お侍さま」
「そうかい、勉強になるな。じゃあ、物知りな町人様、ひとつお聞きするが、俺の目当てのお前は、いつになったら俺と一緒に来る気になる?」
にやにやと口の端を上げながらの高杉の言葉に、山崎はいつものように嫌そうな顔をした。
答えまでの間を取るために、グラスに口を付けようとし、すでに中身が空なことに気づいて舌打ちをする。
「……妙な冗談はご自分の格を落としますよ」
「俺ァ侍だァ町人だァそんなことはどうでもいいんでね。使えそうだと思えば使いてえと思うのは人情ってもんだろ、なあ、山崎退?」
「…………俺は、たとえあんたと一緒にいったとしても、今俺が知ってる全てのことを、一言だって漏らさないよ」
意味がない。言いきり、山崎は握りっぱなしだったグラスを脇に置き、水滴で濡れた手を手ぬぐいで拭いた。
高杉は、山崎の言葉をもう一度頭の中で繰り返し、それからにい、と笑みを浮かべる。
「たとえ、か」
「……なに」
「たとえ話を出す程度には、現実味のある話になってきたか」
薄笑いを浮かべながら言う高杉に、山崎が顔を赤くした。それから唇をきゅっと引き結ぶ。
そんなに表情をくるくる動かす諜報部員は実用的にはいらねえな、と思いながら、高杉はそれを面白がっている。
ますます欲しい、と思うようになっている。
「山崎」
「それはありえない」
「怖いか」
「違うよ」
ちがうよ。もう一度小さく呟いて、山崎はゆっくりと立ち上がる。姿を追って見上げる高杉に向かって、くるりと振り向いた。
町人の姿に扮している。最初は本当に町人のようにも見えた。どこにだっているような、特徴のない姿だった。それが、少しずつ、少しずつ、表情を変え、くるくると動き、言葉で慣れ合うようになり。
今はまた、少し緊張しているようだ。
じっとその様子を見上げる高杉の視線に戸惑ったのか、山崎は一度目を伏せ、深く息を吸った。
「今日で最後。もう来ない」
深く吸った息を、吐き出すように、早口で言って山崎は少し顔を上げる。
高杉と目が合って、少し息を飲むようにする。
「仕事は終わりか」
「俺の張ってた奴は、本当は昨日捕まったよ。広義ではあんたの仲間だ。俺の仲間が捕まえた」
「じゃあ、何で今日来た」
山崎はもう一度深呼吸をした。ぎゅっと拳を握りしめる。
緊張しているというより、何かを堪えているようだ。
「明日も明後日もきっと暑い。特にこのあたりは。編み笠をかぶるか、出歩かない方がいい」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
「違う。何でそれを俺に教える」
さあ。山崎は首を傾げて小さく笑った。胸元を手で押さえる。刀が隠れているあたりだろうか。
「死にたくないからかな」
「俺の居場所を知っていたくせに何も言わず、放っておいたと知れれば切腹か」
「よくて、ね。多分斬首だよ。刀も抜かせてもらえない」
でもそれはちょっと違うかなあ。
何が、と尋ねる高杉を、山崎が少し目を細めて見下ろす。
太陽にかかっていた雲が消えたのだろう。突然逆光になったその表情は、高杉には上手く読み取れない。
「あんたが本当に捕まるべき人間だったのだと目の当たりにしたら、俺は死にたくなる。捕まえるべきだったのだと思ったら、自分で自分を殺したくなるよ。でも俺は切腹すんのは痛そうでやだし、できればまだ少しは生きてたい」
「山崎」
「なに」
「真選組の情報は何ひとついらねえ。身一つで一緒に来い、つったら、お前、どうする」
高杉の握っていたグラスから流れたしずくが、高杉の手を濡らしていく。
着物の上に水滴が落ちて色を濃くする。
ひゅ、と細く、山崎の喉が鳴った。
こんな簡単に動揺を表わすような諜報部員など、いらないのだ。刀だって、使えるかどうかわからないのだ。情報だって、大したものでは、ないかも知れないのだ。
それでも欲しいっつったらどうする。
同じ問いを自分に向けて、その直後に打ち消す。
山崎は一度息を呑んだ後、規則正しい呼吸を繰り返して、それから、ゆっくりと息を吸った。
「どうもしないよ。……どうもできない」
太陽が再び翳って、山崎がきつく目を閉じているのがわかった。
何かを堪えるようにしばらくそうしていて、山崎はくるりと踵を返す。
「山崎」
名前を呼べば、躊躇った後足を止めた。
こんな簡単に付け込まれるような手駒などいらねえな、と思いながら、高杉は口を開く。
「明日と明後日天気がよすぎるのはわかった。俺は天気を読むのが苦手でね、ついでに教えちゃくれまいか。その次の日は、どんな塩梅だ?」
山崎は答えない。
一歩進んで、少し立ち止まり、もう一歩進む。
どうせなら走って逃げればいいのだ。立ち上がってその腕を掴んでやろうか、高杉が思い腰を浮かしかけたとき、山崎が背を向けたまま口を開いた。
「……そうですね、その次は、俺などが、ついふらふらと冷たい茶など呑みに、茶屋に寄りたくなるような、そんな陽気かも知れません」
カラン、とグラスの氷が崩れ、その音を合図にして山崎は駆けだした。
人ごみの中へあっという間に消えて行く。どこにでもいる町人なので、すぐに姿が見えなくなる。
高杉はすっかり薄くなった茶を呑みほし、茶屋の娘が見たらまた勘違いをしそうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
「『捕まえなきゃいけない敵だったのに、実際会ってみたら悪い人には思えなくて…と言うか、どっちかってーと惹かれちゃって困っちゃったな』な山崎と『監察なのは知ってたから、たらしこんで抱き込んで利用しようと思ったのに…何故だ?』な高杉」
というリクエストいただいて書きました。うまいこと形になってたら、いいな!
高杉が山崎を単純に簡単に欲しがる、という話を書くのが多分はじめてなので、いろいろ考えて大変お待たせしました。
少しでもお気に召していただけたらうれしいです。リクエストありがとうございました!