酒の匂いと白粉の匂いとを纏っているだろう。自分の鼻ではそんなことちっともわからないが。いつもよりも少しばかりふらついた足取りで歩く。が、それもひどく主観的なものなので、傍から見ればそう酔っているようにも見えまい。
 高杉は空を仰いだ。雲の形がはっきりと見える。月が明るいのだ。明日もきっと晴れるだろう。
 酒を飲むのは、そう好きではない。上等のものをこの頃飲んでいないので、さして美味いとも思わない。美食家ではあるだろうが、酒を飲まず料理の講釈を垂れてばかりいるほど気取ってもいないつもりだ。要はあの、雰囲気が好きなのだ。飲んで酔って馬鹿騒ぎをしている間は本当に楽しいな、と思う。ああもうこのままぱったり死んでしまえばいいな、と思うこともある。その分、酒が抜けた後はいつもより一層物憂くなるのだが、それは過ぎたあとの話だ。今は酔っている。よい気分である。
 月明かりではっきりとした道をふらふらと歩いていれば、橋の袂に女がいた。明るいとは言え、深夜である。高杉は軽く眉を上げ、ふらふらとした足取りのまま女に近づいた。無論、どうこうしようと思ったわけではなく、ただ定宿へ帰るためにはその橋を渡らなければならなかった、というだけである。
 女の影は濃く長く伸びている。少し俯きがちにしているので、顔は見えない。華奢ではあるが、小柄ではない。すらりとしている。着物は別段粗末ではないが、特に良いものというわけでもない。逢引のために忍び出てきた町娘、のような格好だ。
 何の気なしにそこまで観察して、そこで高杉は、ああ、と思わず声をあげた。
「お前、何してんだ」
 かけた声に女がそうっと顔をあげ、それから驚いたような顔をした。長い睫毛が白い肌に濃く影を落としている。ぽてりとした唇には紅が塗られ、うつくしいが、頭は弱そうだ。
「え、高杉?」
 ただしその口から零れた声は男の声だった。普通の男よりは高い声だが、地声だ。本気で女の装いをするときの声は、もっと細く高いだろう。
「逢引か」
「そういうことになってます」
「誰とだ」
「はは、何それ。高杉こそ、何してんの」
「散歩」
 はは、と何が楽しいのか笑い声をあげ、山崎はにこにこと高杉を見つめた。楽しそうで、嬉しそうだ。何してんだ、ともう一度訪ねた高杉に、山崎は「囮捜査」と早口に答えた。
「辻斬りの。女ばっか狙われてっから、じゃあ俺がって、なるでしょ」
「なるのか」
「なるんだよ。別にいいけど」
 会えたし。短く言って、山崎はまたにこりと笑った。早口で、小さく細い声だったので、自分の聞き間違いではないかと高杉は少しの間疑った。
 自分に会えたから、それでいいのか。それは一体、何だ。
 眉間に皺を寄せた高杉に構わず、山崎がコツリと下駄を鳴らして高杉に近づいた。本当に女がそうするように、甘えた仕草で高杉の手を取る。竹刀だこのできた、あまり華奢ではない手だ。やわらかくもない。だが、あたたかくて、心地よいような気がする。
 ふふ、と山崎の口から笑い声が零れる。
「お酒の匂いがする」
「飲んで来たからな」
「吉原?」
「さあな」
「吉原だったら、こんな時間に帰っちゃこないか。でも、白粉の匂いがする」
 すんすん、と山崎が鼻を鳴らして、わざとらしく高杉の首筋を嗅いだ。それからにいっと笑って、顔を離す。
「……犬みてえ」
「うん」
 そうだね、と笑う山崎は、まだ高杉の手を握ったままだ。これは一体何だ、と高杉は軽く目を閉じる。少し頭痛がするのは、飲みすぎたからかも知れない。やはり酒は、良い酒でないと、いけない。
「いいのか」
「ん?」
「仕事中なんだろ」
 嫌そうに言って、握られた手を逃がせば、一瞬山崎は本当に悲しそうな顔をした。笑っていたと思えばすぐこれだ。こんなに表情が豊かで、人を騙すことなどできるのかと疑う。
 が、もしかしたらそれがまず罠なのかも知れない。
 自分は今も、騙されているのだろうか。
「声かけたのそっちじゃん」
「知ってる奴がオカマみたいに立ってたら声かけるだろ、普通」
「高杉の口から普通とか言われたくないし」
「うぜえな。何だ、お前、買ってやろうか」
「遠慮します。今日はそういうんじゃないんで」
 また今度ね。いたずらするような顔で笑った山崎は、わざとらしく高杉を上目遣いで見上げた。ぱちりとした目が軽く瞬きをする。その仕草に少しざわめいた気持ちを、高杉は瞬時に打ち消した。そもそも自分は切れ長の目の方が好みなのだ。あまり化粧の派手な女は、好きでない。
 いや、これは、そもそも女ですら、ないのだった。
「……今度だったら」
「うん?」
「そういう仕事のときだったら、買われんのか」
「えー?」
 何言ってんの? 呆れたように山崎が言って、首を傾げた。しゃらん、と簪の飾りが音を立てる。
「そのときは、来い。優しくしてやるぜ?」
「……お酌しかしないよ」
「それァ俺が決める」
「何それ」
「不服か」
「当たり前だろ助平」
「そんな格好してふらふらしてる方が悪ィな。攫われても、文句は言えねえぞ」
 俺みたいなのに。
 山崎の耳元に唇を近づけて、殊更低く囁いた。山崎は思った通り体を強張らせて、高杉を軽く睨みつける。
 けけ、と高杉は笑った。ほんの意趣返しのつもりだ。
「いい酒買って、待っててやるぜ」
「……絶対行かない」
「来るさ。お前はな」
 せいぜい頑張って仕事しな。ひら、と手を振って、高杉は山崎の横をすり抜けた。山崎の下駄が軽く鳴って、止まる。追いかけようとでもしたのだろうか。まさか。
 月の明るい晩である。風は涼しく、肌に優しい。酒の匂いと白粉の匂いが自分についているそうだが、自分自身ではわからない。足元はふらつくような気がするが、指摘をされなかったので、どうということもないのだろう。
 少し足取りが軽いのは、酒に酔っているからだ。美味い酒ではなかったが、やはり、酔っている間は気分がいい。触れられた手を軽く握る。開く。まだぬくもりが鮮明に残っている気がする。
 振り向くが、女の姿はもう見えない。まあ、斬られることも、ないだろう。
 上等な酒を買い付けにいかなければ。つまみは甘いものがいいだろうか、辛いものがいいだろうか。考えるうちに口角が上がる。
 なかなかに良い気分だ。酒が抜ければ物憂くなり、死にたくなりもするだろうが、それは明日目覚めた後の話だろう。今夜は良い夢が見られそうだと、高杉は少し、浮かれている。

      (09.09.26)




「高山2人でお酒を飲む話」というリクエスト…だったはずなのですが、書き終える直前で、あれ?これ全然沿ってないよね? って気づきました。ただただ申し訳ないです。
女装してるときの山崎は、いつもの山崎よりもイケイケでノリノリで調子に乗ってたらいいなって思っています。そして高杉はそれにちょっと困惑しつつ、嬉しかったりするといいな。そんな些細なことで幸せだなって思っちゃう高山は、かわいいけどちょっとばかしかわいそうですね。そういうのが好きです。 そんな感じで好きに書いて楽しかったですすみません。ありがとうございました!