いつか絶対死ぬより前に言ってやろうと思いながら、この先一生、たとえ死んでも、言わずにおこうと決めていることが、ある。






 ひどい殺気を振りまいて傷だらけの人間が部屋に転がり込んでも、高杉はそれほど驚きはしなかった。殺気を振りまいている人間の歩き方に覚えがあったからでもあったし、自分の部屋にそう簡単に転がり込むことが出来る人間はそもそも限られていたからだ。殺気が、自分に向けられたものではないということも分かっていた。
 それでもわずかに右目を見開いたのは、傷だらけだった山崎が、本当に死にそうな顔色をしていたからだ。
「おい」
 呼びかけには、ひゅう、と喉が鳴る音。
「大丈夫か」
 立ち上がって駆け寄るべきか、どうか。部屋に転がり込んだところで力尽きて倒れ込んだ山崎の様子を座ったまま伺いながら、高杉は逡巡する。助け起こすべきか、どうか。
 山崎は動かない。
「死ぬのか」
 意外に冷静な言葉が出たことに、高杉は少し驚いた。ぐったりと倒れ込んだ山崎を見ても、夢で見たより心臓は冷えなかった。死ぬのか、と静かに思った。自分の傍で死ぬのか、と思って、細く深く息を吸った。山崎が吐く二酸化炭素を体内に取り込んで残しておこうとする動きだったかも知れない。
 山崎は高杉の冷たい言葉にも暫く動かないままでいて、高杉が四度目に深呼吸したときにやっと、重たげにその頭を動かした。
「……死なないよ」
「大丈夫か」
「別に、あんたに心配してもらわなくたって、大丈夫」
 じゃあ何で俺のところに来たんだという言葉を高杉は飲み込んだ。山崎もそのおかしさは分かっているのだろう、後悔するような顔を、一瞬、した。けれどそれもすぐに消え、再びぐったりと表情を消した山崎は、ひどく緩慢な動きで体を無理に起こした。
「動けるのか」
「そんな大した傷でも、ないから。すぐ落ち着く。ねえ、高杉」
「何」
「悪いけど、薬箱とか、ある? 自分でするけど、手当。貸してくれるとありがたい」
 心配してもらわなくたって、と拒絶したのと同じ口で甘ったれたことを言い、山崎はゆっくりと高杉の前に座りなおした。高杉が薬箱を取りに立ち上がる前、否、貸すと承諾するより前に、さっさと着物をくつろげていく。斬られ汚れほとんどただの布と化した着物は、どうせきちんと着ていたって、ほとんど意味がなかっただろうが。
 高杉は溜息をひとつついて立ち上がり、山崎の要望通り薬箱を取り出して、それを山崎の前に置いてやった。少し距離を取るように窓際に座りなおした高杉に顔をあげ、ありがとう、と少し細い声で山崎が言う。
 薬箱を開ける手が、爪の先まで渇いた血に汚れていた。


 言った通り、全ての傷を自分で手当をした山崎は、もう一度「ありがとう」と小さな声で言って、再び力尽きたように体を畳の上に横たえた。着物はもう袖を通せたものではないから捨て置いたまま、ひどく無防備に、だ。肌の上に走るいくつかの傷が、高杉の目に焼きついた。今手当てをしたばかりの傷ではない。ずっと昔についたのであろう、もう白くなっている傷だ。
 いくつもの傷が山崎の血を奪って命を削って跡を残して、そうしてこいつはいつか死ぬのだ、という事実が、高杉の脳裏をぼんやりと過った。こいつもいつか、死ぬのだった。そしてそれはおそらく、自分の手の届かない場所での出来事だ。
 山崎が深く吐く呼吸を吸い込むように、高杉は細く深く息を吸った。立ち上がって箪笥を漁る。引っ張り出した紫色の着物を、山崎の上に投げる様にして放った。
「う、っわ、何」
「そんな恰好で帰れねえだろうが。貸してやる」
 高杉の部屋にやってきたということは、どうせ仲間と共闘したのではないだろう。であれば、着物のひとつ高杉が貸しても、山崎が上手く誤魔化しさえすればどうにかなるだろう。そこまで考えて高杉は眉を寄せた。自分がそこまで気を遣って考えてやる必要が、あるだろうか?
 山崎は驚いたように暫く高杉を見つめて、それからやっと、小さく笑った。目を細めて、高杉が投げた着物を抱きしめるようにした。それが何故だか高杉には、ひどく、甘く、たまらなく、苦しく、切ない光景のように見えた。
「……ありがとう。でも」
 嫌だな。抱きしめた着物を鼻のあたりまで引き上げながら、少し弱った声を山崎は出した。
 何が、と視線だけで訪ねる高杉に、苦笑が返る。
「これ、持って帰るの、やだな。……忘れられなくなる」
 最後の言葉を囁くように言って、山崎は深く息を吸った。傷に障らないように、ゆっくりとした動きだ。
「……こんな香りを、連れて帰ったら」
 きっとすぐに会いたくなって、頭がおかしくなるかも知れない。
 笑いまじりにそう言って、山崎の視線が高杉へと向けられた。高杉は思わず、怒鳴り散らしそうになったのを拳を握って耐え、深く息を吸って、一度止め、自分を落ち着かせるようにゆっくりと吐いた。
 じり、と山崎に近づく。
「お前が、言うか。それを」
 着物を抱きしめている左手にそっと触れる。
 山崎の瞳が一瞬揺らぐ。
「好きなときに好きなように来て、帰っていくだけのお前が、それを」
 続きは言葉にならなかった。いつだって香りを、気配を残して去っていくお前がそれを、言うのか。それを高杉は懸命に噛み殺して、呑みこむ。
 今日はきっと血の匂いが残るだろう。
 山崎の傷の、山崎の爪に残った誰かの、血の匂いが残って、山崎の気配を如実に焼きつけていくだろう。
 触れた左手をそっと握った。高杉の手の中で、山崎の指がぴくりと跳ねる。短い爪の中に入り込んだ赤黒い血液。
 山崎はひどく、困ったような顔をした。泣きそうな顔でもあったのかも知れない。高杉の手を握り返すようにして、目を伏せる。
「ごめんなさい」
「何が」
 何に対する謝罪だ、それは。咎める様に高杉が繋いだ手に力を込めれば、山崎の口元が悲しげに歪む。
「……好きになって、ごめんなさい」
 ぎゅ、と強い力で、山崎の手が高杉の手を握り返した。それが少し、震えていた。けれどそれは、傷が痛むからなのかも知れない。
 そんなことを言うのは、今更だろう。残酷だろう。そんなことを謝罪されたら、自分は一体何をいくつ、謝らなければならないのだろう。
「返しに、来いよ。気に入ってる着物だ」
 手に込めた力を少し抜いて、指を、指の間に滑り込ませるようにした。きつく繋いで、隙間がないように力を込めた。無理にそうするので少しばかり指が痛んだが、あまり分からなかったのは、もっと別の部分が痛いような気がするからだ。
 返してもらわなければ困る。それは気に入りの着物で、貸しただけで、やったわけではない。脳裏で高杉は繰り返す。そう、それを、約束にしてくれればいい。次に来る理由にしてくれればいい。
「……うん。なるべくはやく、返しにくるね」
 山崎は、少し笑った。ほんの少しだけ寂しそうな笑い方に見えたが、おそらくは傷が、そうでなければ指が、痛むのだろう。そうに違いない。
 高杉は山崎の頬にかかった髪を払って、その唇にそっとくちづけた。触れ合わせるだけのくちづけを、した。抱きしめはしなかった。傷が開くだろうと思ったからではない。抱きしめれば、離せなくなるだろうと思ったからだ。
 香りは長く残るだろうが、唇のぬくもりはいつまで残るだろう。いつまで覚えているだろう。
 あと、もう一秒、二秒。繋ぎ合わせた手を離したくない。
 いつか絶対、死ぬよりも前に、言ってやろうと思っている言葉がある。その言葉で全部絡め取って縛りつけてしまおう、と、思っている。そうして攫ってしまおう。抵抗されても泣かれてもたとえ刀を向けられても、無理矢理守って攫ってしまおう。
 けれどきっと、一生言えない。言わない。
 死ぬまでずっと身の内に、飼っておこうと決めている。音にすればたったの五音だが、それは高杉にとって途轍もなく長く、重たく、鋭く、到底口にはできないのだ。
「……退」
 その言葉の代わりにするように、名前を呼んだ。

(お前の名前をこうして呼んで、それが届くなら、それでいいさ)

      (09.11.23)




「この人にいつか絶対に言ってやろうと思いながら、言わずにおこうと決めていることがある。」のお題を頂いて書きました。というか、本当は、山崎から高杉への、みたいな感じで頂いたのに、先にこっちが浮かんじゃったので、リクエストというか勝手にやりました。
自分で選び取って高杉の部屋へ向かう山崎と、勝手に気配だけ残された部屋でひとり暮らさなければならない高杉は、どちらがより不幸なのだろうと考えています。まあ、自分で部屋を引き払わない高杉も、山崎と会うことを選択してるっちゃそうなんだけど。
いただいたリクエストはまたちゃんと書きます。お題だけ勝手にいただいてすみませんでした。ありがとうございました。