山崎の部屋の文机の一番下の抽斗を勝手に開けたのにはきちんとした理由があった。
 ずっと貸しっぱなしになっていたマンガを急に読みたくなって、でも生憎山崎は外出中で、連絡も取れず、どうしようもなかったのだ。別に、荒らしてやろうとか、何か探してやろうとか、そういう心づもりがあったわけではけっしてない。
 でも、今自分は結局、その抽斗の奥の奥に押し込むように隠されていた手紙を、震える手で開いている。いけないことだとわかっているのにだ。悪いことを、している。
 ああそうだこいつの持ち物はひとつだって暴いてはいけなかったのだと、ここへきて、沖田はやっと思い出したのだった。


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 先生、お元気ですか。今日は勝手に、出す宛てのない手紙を書こうと思います。
 書き終わったら、すぐに燃やして捨てるつもりです。灰にして、土の中へ埋めてしまおうと思います。
 それでも誰かに見つかると困るので、先生と、お呼びすることをお許しくださいね。ちっとも言うことを聞かないのに先生だとは笑わせる、という、あなたの声が聞こえてきそうです。まだこんなにも鼓膜の近くに記憶が残っていて、俺は時折悲しくなります。
 どうしよう。先生、俺は、ひどい裏切りをしているのかも知れません。
 これは懺悔の手紙です。先生に届かないとわかっていながら、俺はこれを書くことで、許してもらいたがっているのです。

 情を好かない、と先生は常に仰っていましたね。
 俺はずっと、その意味がわかりませんでした。俺自身は、先生に拾われて、生きる全てを与えられて、俺にとって先生は命そのもので、それはもう愛情とかそういう単純な感情全部を超越しているものだと思っているのだけれど、それでもやはりそれは先生の言う「情」という範囲に入っている感情だったので、俺はずっと悲しかった。俺が先生の言うことを聞くこと、傍にいたいと思うことを否定されているようで、ずっと悲しかったのです。
 事実先生は俺を疎んじていらっしゃいました。知っています。気持ち悪いと思っていたことも知っています。
 それでも俺の世界には先生ただ一人しかいなかったから、俺はどうしても先生の傍を離れられなかったし、先生が頑なに情を厭われるのが、ほんとうに悲しくて苦しくて、恨んだこともありました。
 それなのに、わかってしまった。先生がどうしてあんなにも情を拒んでいたのかわかってしまった。ひどい裏切りです。俺は謝らなければならない。

 大切にしたい人ができてしまいました。
 傍にいたくて大切にしたくてできることなら俺が守りたい。
 ひどい、ひどい話です。今いる場所でそういう人ができた、これは、ひどい裏切りです。先生に一突きで殺されても文句は言えない。いや、そもそも俺は先生に殺されることがあったとして、文句を言ったりすることは、ないのですが、それでもこれは、ひどい。先生が直接手をくださずに、どこぞへ放り出して、俺は野垂れ死にするより他ないかと思うほどです。

 身動きができなくなってしまった。俺は先生が大事です。何より大事です。先生は俺の命です。
 それは、そうなのです。揺るがない。そのために俺は今ここにある。なのに、どうしよう、殺したくない人ができてしまった。
 先生の命令でも、俺はあの人を殺せないかもしれない。
 たくさんの理由をつけて、剣の腕の未熟でさえ理由にひっぱりだして、俺はあの人を殺すことを拒むかもしれない。
 かもしれない、じゃない。俺はきっと、殺せないのです。絶対に、そうだ。
 こういう場所だから、ご存じでしょう。俺が何をせずとも、人死には出ます。片手では足りないほどの人数など簡単に死んで簡単に補充されます。
 俺の大切な人も、体にたくさん傷を作ります。血をかぶって帰ってくることも、もちろん多い。俺はそのたび怖くなるのです。おびただしいほどのその血が、返り血でなかったらどうしよう、と思うともう、たまらなくなる。そうやって血まみれで帰って来たあとには、やはり疲れるもので、みんな泥のように眠ってしまうのだけれど、その人がそうやって寝ていると、俺は呼吸を確認せずにはいられない。夜、眠っていても、こっそり起き出して確かめに行ってしまう。
 こわいのです。あの人が死ぬのがほんとうにこわい。だから俺にはきっと、あの人は殺せない。
 でも先生、あなたのことも裏切れない。どうしよう。どうすればいいですか。

 これが、情ということなのですね。厭うべき、拒むべきものなのですね。よくわかりました。
 殺せなくなる。切り捨てられなくなる。傍にいたくて守りたくなる。今が幸せならそれでいい気がする。
 そんなはずないのに、もっと、大事なことがあるはずなのに、でも、どうでもよくなってしまう。
 先生の仰るとおりです。やはり、あなたは正しいのだ。俺はいつも生意気ばかりを言って、あなたを怒らせていたけれど、やっとわかりました。先生はいつだって正しかったんです。
 こんな感情、持つべきではないのだ。
 どんなに好きだと言われても、返せないから迷惑なのだ。
 返してはいけないから、向けられたって苦しいだけなのだ。

 でも、好きなんです。好きになってしまった。
 そのうえ、その人は俺のことを好きだと言うのです。繰り返しくりかえし、好きだと言ってくれるのです。こんな俺のことを、好きだと言う。どうすればいいだろう。先生の対しても俺は裏切り者ですが、その人に対してだって、俺はひどい裏切り者だ。何もかも嘘をついている。俺の存在自体、ここでは嘘でしかない。でも、そんな俺のことを好きだという。
 やさしい人です。すごい人だ。俺には到底まねができない。
 好きなんです。俺はその人が好きで、大事で、傍にいたくて、できることなら守りたいのだ。
 でも、俺なんかが守れるような人ではない。
 もっと弱い人ならよかった。心が脆い人であればずっとよかった。守ってあげるから攫わせて欲しかった。そしたら俺は幸せになれるのです。先生も裏切らず、好きな人も裏切らないでいられるのだ。
 でも無理です。できるわけがないのです。だって、俺の好きになった人なんです。きれいな心を持っているのだ。真っ直ぐなのだ。どうしようもない。俺が先生を捨てられないように、あの人もここを捨てられない。いや、そんな言い方では失礼です。俺はあの人を殺せない。心が脆弱だからです。でもあの人はきっと、俺を、きっと殺せます。
 そういう人です。やさしい人なんだ。今の場所を何より大切に思っている、まっすぐとした信念を持った人なんだ。
 どうしようもない。俺はもう、どこにもいけなくなってしまいました。

 もしかしたら俺の嘘はもうとっくにばれているのかも知れません。
 そんな気がします。俺は何も言っていませんが、ばれているのかも知れない。
 あの人は、あなたを殺さないんですって。
 あなたに刀を向けることは、私怨になるから、しないんですって。
 それって、そういうことでしょう。それを俺に聞かせるって、そういうことでしょう。だって、あの人は俺のことが好きなんだ。

 先生。俺は今あなたを少し憎んでいます。あなたが俺の全てでなかったら、俺はあなたを捨てれたのに。やつあたりです、わかっています。だったら捨てろとあなたは簡単に言うでしょう。でも無理だ。まだ、無理だ。まだ、あなたは、俺の中で大きすぎる。
 でも、それでももし、いつか、俺があなたを捨てる日が来たら、



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 途中で切れた手紙の最後は、文字が乱れて墨が跳ね、慌てたような筆の動きの軌跡を無残に残していた。きっと、書いている途中で部屋の外から声をかけられて、慌てて隠したのだろう。本当は焼いて埋めなければいけないこれを、抽斗の奥に突っ込んで、そのままにしてしまったのだ。
 もしかしたら、この手紙の邪魔をしたのは自分だったろうか。
 きれいな、教養のない沖田にはところどこを読めないような、崩し字の混ざる文字。
 書類ではけっして見ない、手紙を書くときにしか見ない、山崎の字だ。
 そしてこの手紙のあて先がどこなのか、沖田は知っている。山崎が気付いているように、沖田はもう知ってしまっている。

(守ってやるから攫わせろってのは、俺のセリフだ、ばかやろう)

 ぐしゃぐしゃになった手紙をしばらく見つめた沖田は、それを丁寧に畳み、着物の懐へそっと隠した。
 他の誰かに見つかったら困ると思ったからではない。
 これは本当は、自分に宛てられるべき手紙だと、そう思ったからだ。

(こんな熱烈な恋文を書かれて、じっと黙ってちゃいられねえよ。泣いても喚いても後悔させてもどうでもいいから、俺がこいつを、)

 奥歯をきつく噛みあわせる。喉が干上がる。手紙を隠した部分が熱い。きつく目を閉じる。暗くなった視界が揺れる。
 守れるだろうか。守りたいのだ。きっと沖田よりもっと深い執着でもって、「先生」に生かされている、あのかわいそうできれいな、何より自分の大事な人を。

      (09.12.20)




「IN鬼兵隊の沖山で、沖田さんが報われてないように見えて報われてる話」というリクエストで書きました。前回の「うそでもいいから」の続きみたいな感じです。
普通のIN鬼兵隊と違うのは、山崎が高杉さんに恋をしているかしていないか、というだけなので、あの執着心を断ち切って沖田さんとちゃんとしあわせになれるかは微妙なところですなあ。でも前回よりは話が前進してるはずです。
もともと設定が捏造好き勝手なうえ、好き勝手な形態で書けてものすごく楽しかったです。
ありがとうございました。