窓ガラスを、時折雨が掠めて行く。
さああああ、と軽い音が響く。遠くの出来事のような。薄く白く煙る外の世界は暖かそうにすら見える。冬の日は、雨や雪が降った方が少しは暖かいというから、あながち間違っていないかも知れない。
冬にしてはやけに湿気を多く含んだ重たい空気を山崎はそうっと吸い込み、肺へとゆっくり流し込んだ。そして吐きだす。空気が重いのは本当に湿気のせいだろうか。ひどく、緊張している。視線を落とす。指先がじんわりと熱い。山崎の指を握り込んだ土方もまた、ゆっくりと呼吸をする以外の音を発しない。重たい空気が体に纏わりついていく。教室の後ろに飾られた花の香りがやけに甘く、空気に滲み、溶けだし、肺の奥へと流れ込む。それに喉を塞がれて、ゆっくりと繰り返していた呼吸をすることすら、少しずつ困難だ。
足先は痺れるほど冷たいのに、握られた指先だけ熱い。じわじわとそこから焦げるようでもあり、溶けて行くようでもある。
振りほどけないし動かせない。逃げだせない。山崎は何度目か、視線を上げ、土方をそっと伺い見た。途端、視線が絡んで喉の奥あたりが重くなる。
「山崎」
名前を呼ばれるだけで頭がおかしくなりそうだ。耳を塞ぎたくて、けれど片手を握られているからそれも叶わない。
「駄目か?」
弱く優しい雨の音にかき消されそうな大きさで、土方が言った。花の香りが甘たるく、空気に溶け出し喉を塞いでいく。血がどろりとざわめく。
「なあ」
平坦な声なのに熱が篭っているようで、山崎は再び俯ききつく目を閉じた。あまりに長く見ていれば、血液の最後の一滴まで持って行かれそうな気がして怖かったのだ。
……持っていかれて困ることがあるのか、いや……、
「土方、さん」
土方の声を最後にして、雨の音ばかり耳につくのに耐えきれず、名前を呼んだが少し引っかかって無様に掠れた。それが異様に恥ずかしい。握られた指先が熱を持ちすぎて溶けていくのではないかと心配になる。
分かりやすく動揺している様をいっそ笑ってくれればよかった。何焦ってんだと馬鹿にしてくれるのなら、まだ救われた。なのに土方は少しも笑う気配を見せず、山崎をじっと見つめたまま、次の言葉を探しているようだ。あるいは、山崎の言葉の続きを待っている。
この人はきっと視線だけで人を殺せるだろう。見つめられた部分から発熱しそうで、山崎は唇を噛んだ。その動きに釣られて反射的に動いた指先が、土方の手を握り返すような形になって慌てる。そんなつもりじゃないのに。誤解を恐れて顔を上げれば、土方はやはりまじめな顔で、山崎をじっと見つめていた。
「……なあ、好きだ」
もう何度目か山崎の鼓膜に刻みつけられた言葉を、土方はまた口にして、それからしばらく山崎の返答を待つ。山崎は視線を逸らし、唇を開き、閉じて、結局何も言葉を返せなかった。
熱がじりじりと指の先から駈け上がって全身どろどろになりそうだ。
「付き合ってくれよ」
懇願のようなそれを聞くのもこれが初めてではなかった。山崎は深く深く俯いて、自分の爪先を見つめる。頷けない、けれど、嫌だとも言えない。どうしよう。握られた手を振りほどいて逃げだせばいいのだ、そして廊下を駈けて靴を履き替え帰ってしまえば、明日まで会わずに済む。
ああ、でも今日は雨が降っている。窓をきちんと締めていても音が入りこむほど鮮明に雨が降っている。さあああ、と軽い音を立てて視界を曇らすそれ。今日は傘を忘れてしまった。だから帰れない。
だから、帰れないんだ。だから逃げられないんだ。俯いたまま目を閉じて、そう自分を納得させる山崎をただ静かに見つめていた土方が、そっと、指の力を抜いた。
はらり。
葉っぱが枝から落ちる様に、山崎の手が空を落ちる。
指先を溶かしていた熱が、冬の空気に急速に溶かされて消えていった。
思わず顔を上げた山崎の目に、土方の苦々しい顔が映る。泣きそうな、とも違う、どちらかと言えば怒っているような。
「……お前さ、俺のことが嫌いなら、そんな顔すんな」
「そんな顔、って……」
「嫌なんだったら、頼むから、逃げてくれよ。俺だって、無理なこと言ってんのはわかってんだ」
ちゃんと拒めよ。言って、土方は掌で顔を隠して俯いた。深く溜息をつかれて、山崎の肺の奥がきりっと痛む。詰られている。それはわかる。自分が悪いのだろうか。わからない。逃げて欲しいなら、手なんか握らなければいいじゃないか。
熱の逃げた手を自分の片手で引き寄せてきゅっと握り、山崎は困り顔で土方を見つめた。
あ、今逃げればいいのか。そうだ。もう手は自由なのだ。逃げよう。逃げなきゃ。
なのに足が動かない。花の香りに絡め取られて少しも体が動かない。外は雨が降っている。今日は傘を忘れてしまった。だから帰れない。逃げられない。
どうしよう。
ほとんど泣きそうな気持ちで山崎は土方を見つめた。その視線に気づいたのか、土方が低い呻き声をあげる。
「好きだ」
歯を食いしばるようにして、怒りを噛み殺すようにして、土方が、また口にした。
「お前が好きだ。頭おかしくなりそう。駄目じゃねえなら付き合ってくれよ」
「……だって、」
「だってじゃねえよ。何だよお前。全然逃げねえし、普通に笑うし、そのくせ好きっつったらめちゃくちゃ困るし……なあ、お前、俺のこと、どう思ってんの」
顔を掌にうずめたまま、土方は言葉だけを零す。山崎はその言葉の跡を追うように、土方の足元に視線を落とした。何か言葉を返さなければと思うのに、雨の音に思考を遮られて、上手く言葉が見つからない。
「お前が好きなんだよ、俺は。なあ、どうにかしてくれよ。駄目なら駄目って言ってくれよ」
懇願のようなそれは、助けてくれよ、と言っているように聞こえた。
思わず山崎は一歩土方に近づいて、冷えてしまった指先を伸ばす。硬くて冷たそうな髪に触れれば、土方が驚いたように顔を上げ、それからきつく眉根を寄せて山崎の手首を勢いよく掴んだ。
「……っ、」
「お前、なあ!」
ぎり、と骨が鳴るほどに手首を握られ山崎は声を噛み殺す。
射殺すような視線で山崎を睨みつけた土方は、眼光の鋭さそのまま「なあ」と再び、口にした。
「好きだ。付き合って」
「……だって、」
「だって?」
「……俺は男で、土方さんも男ですよ」
「わかってんだよそんなことは」
「俺なんかと一緒にいたら、土方さんがきっと困るよ」
「何だよそれ。俺はお前といてえんだ」
「……きっと、そのうち、俺のことなんか嫌いになるよ。でも、土方さんは優しいから、俺を捨てられないでしょう? 俺も男で土方さんも、男なのに……付きあったりしたら、俺を捨てるのなんて、申し訳なくてできないとか、思うでしょう?」
「そんな、」
「絶対、思うに決まってます。だから」
「……お前さ」
強く手首を握られて、そこから先の感覚が少しずつ失われていく。まるで土方の掌に吸い取られている錯覚を山崎は覚える。
幾分か視線を和らげた土方が、山崎を見て、視線を逸らしてもまだ見つめて、それから溜息を吐いた。笑い声のようなそれだったので、山崎は逸らした視線を再び土方に戻してしまう。
視線が絡む。土方の口角があがっている。困ったような笑い方をしている。泣きだしそうにも見える。どうしよう。どうすればいいんだろう。喉の奥が痺れて甘くて痛い。空気が重くて呼吸が出来ないので、浅い呼吸を短い間隔で繰り返す。
く、と軽く手首を引かれて、冷えた足元がよろめいた。
そのままもう一度、今度は強めに引き寄せられて、山崎はなすすべもなく、気付けば土方の腕の中にいた。
窓ガラスを雨が叩いている。さああああああと音をさせて世界を塗りつぶして行くようだ。この教室だけまるで、どこからも切り離されたようだ。とくとくとくとく、速い速度で鳴る音は、土方の心臓の音だろうか。呼吸の音までくっきり聞こえる距離に、山崎はうろたえた。窓の外では雨が全ての音を奪っているのに、ここでは土方の生きる音が、こんなにもくっきりと聞こえる。あれだけ喉を塞いだ花の香りも、土方の制服から香る煙草の匂いと、それから土方自身の匂いで、もうよくわからない。
「……山崎」
笑いまじりの声が落ちたと思ったら、突然きつく抱きしめられた。
「お前、いい加減、俺が好きだって認めろよ」
やはりそれは、懇願のようでもあった。
耳朶にくちづけるような近さで、鼓膜にはっきり刻み込まれて、頭がおかしくなりそうだ。雨の音と花の香りと土方の匂いと土方の声。逃げる術がわからなくて、山崎はもう、頷くより他なかった。
「逃げ回る山崎を土方さんが陥落させる」というリクエストで書きました。3Zは普通の話とは違って、わりと土方さんと山崎が対等でいられるのがいいです。対等なのに山崎が土方さん至上主義、というのに、わりと萌えます。そして土方さんが何の権力も持っていないので、恋以外で山崎を繋ぎとめることができなくて苦しい、というのにも萌えます。
全然山崎逃げ回ってませんが……すみません。書いててすごく楽しかったです。ありがとうございました!