たとえば害悪にしか成り得ない煙を吹きかけてもその肌の上に灰を落としても怒るだけで逃げ出さない誰かを得ること、は、幸福だろうか?
肺の奥底まで吸った煙をゆっくりと吐き出す。隣で半分うとうとしていた山崎は、うっすらと目を開けて、まるで甘える動物がそうするようにすりすりと体を摺り寄せてきた。触れ合う肌がまだ少ししっとりとしている。開いた手で髪を撫でてやれば、気持ちいいのか目を細める。
「吸いすぎですよ」
少し呆れたように、笑い混じりで眠たげに山崎が言って、何がおかしいのかくすくすと笑い声をあげた。鼻先を押し付けてきたかと思ったら、「煙草くさい」と笑いながら文句を言う。
「次の俺の仕事が失敗したら、土方さんのせいです」
「何で」
「匂いがつくでしょ」
「次は何になんの」
「生真面目で朴訥とした攘夷浪士」
「へえ」
適当な返事をすれば、もっと興味を持って下さい、とやはり笑って山崎が言う。興味も何も、仕事の話だ。生真面目で朴訥とした攘夷志士に変装する山崎、というキーワードからどうやって話を膨らませろというのだろう、とぼんやり考えながら、土方は再び煙を吐き出す。
火が、じりじりと煙草の先を燃やして灰にしていくので、落ちる前に灰皿を引き寄せた。軽く灰を落とすその動作を、何が楽しいのか山崎はじっと見つめて、それから「それ、好きです」と唐突に言いだす。
「それって何」
「灰落とすの。すき」
「女みてえ」
「女に言われたことあるんですか」
「その切り返しがもう女みてえ」
山崎は一瞬きょとんとした顔をして、それから「そうですねえ」ときゃらきゃら笑った。おかしそうに体を丸めて擦り寄ってくる。女のようでもあるし、猫のようでもある。どちらにせよ、愛玩すべきものだ。
刀を握る、いわば侍であるはずの山崎に対して、女のようだというのはひどい侮辱だろう。山崎は本来怒るべきなのだ。馬鹿にするな、と灰皿を土方に投げつけたってやりすぎではない程のことだ、と土方は思う。もし自分が誰かに、たとえそれが親しい人であっても、女のようだ、と言われたらいい気分はしない。激昂だってするかも知れない。場合によっては斬ってもいいくらいのことだ。
斬ってもいいくらいのことだ。
土方は山崎を、女の代わりのように扱っているのだ。
侍になるのだと決めて、他の全てをすてて刀を取った土方が、人を殺すより先にしたのは煙草を吸うことだった。
人に刀を向けたら、もうそこからは自分がいつ殺されてもいい覚悟をして生きなければならないと思っていた。明日死ぬかも知れない、今日死ぬかもしれない、今死ぬかもしれない。ならば、やりたいことは全てやっておかなければ損だと思った。
浴びるように酒を呑み、女を抱いて、煙草を吸った。
煙は、喉を焼き、肺に染み、小さな痺れのようなものを土方の中に残した。肺が少し痛んだのは、錯覚だったろうか。呼吸が少し苦しく、咳き込んだ。涙が滲んだ。
彼女もそうだったろうか、と思えば、突然煙草が愛おしくなって、それからずっと手放せない。
土方は生まれたときから健康体で大きな病にかかったことすらないので、彼女の苦しみなどわからなかった。
家族に体が弱い者もいたが、バラガキとしてふらふらしていた土方がその家族の手助けをしたこともあまりなく、どうすればいいのかわからなかった。
彼女はどんな風に苦しいだろう。どんな風に痛いだろう。どうすれば楽になるだろう。
ちっともわからなかった。
初めて煙草を吸ったときの苦しさが、土方を少し彼女に近づけた。
いつかこの煙草の煙が自分の体を害して死に至らしめるのなら、それでもいいとすら思った。病になって死ぬのなら、彼女の苦しみもわかるかも知れない。
きっと幸福にはできないが、そうでなければ一緒に苦しみたかった。
けれどそれもできない。できないと絶望していたときだったから、煙草の煙は本当に土方を救った。
死ぬのなら、刀で斬られて死ぬか、肺の病で死にたいとすら、思っていた。
一度も口にしたことはないが、本当に本当に、本当に、愛していたのだ。触れられないくらいに。
山崎のしっとりとした肌に掌をはわす。官能を誘うそれではなく、じんわりと体温を溶かしあって、落ち着くための行為だ。気持ちいいのか山崎は眠りに落ちる前の子供のようにまどろんでいる。
口うるさくて、よく笑って、いつも近くにいるところが似ていた。
理由なんてそれで十分だった。
そんな風に思って、そんな風に扱っていることを、山崎はもっと怒るべきだしはやく土方に愛想を尽かすべきだ。
簡単に触れられることが突然恐ろしくなって突き放したり、彼女とは違うことを確かめるように暴力を振るったり、かと思えば愛しい気持ちだけで抱いたり、そういう身勝手な土方から、はやく山崎は逃げるべきなのだ。
どうして逃げないのだろう。肌を撫でていた手を離して、土方は再び煙草を手にする。
答えがでないことを考えるのは嫌いだ。思考を閉ざすように煙草に火を付けた音で、山崎が少し目を覚ました。
眠たいのだろう、開かない瞼を懸命に開けようとしているところが、可愛い。愛おしい。彼女のこんな顔などみたことがないから、この愛おしさとは、真実山崎に対して抱く愛おしさだ。
それは果たして正しいことだろうか。
再び思考の闇に飲まれかけた土方の手に、そっと山崎の指がかかった。半分眠りの中にいる、よわよわしい力だ。
「……吸いすぎ」
「好きなんじゃねえのか」
「体に、悪いです」
だから吸っているのだ、とは、とても言えない。
吐きだす煙が山崎の顔にかかって、山崎の口の中に入り込み喉を通って肺を汚した。
山崎は少し顔を顰めただけで、何も言わなかった。
逃げていいのだ。本当は、今すぐにでも逃げていいのだ。
煙草の火がじりじりと灰を燃やして、今にも山崎の肌の上にその灰を落としてしまいそうだ。少し手を軽く振るだけで、灰は山崎の白い肌を焼くだろう。
怒るだろうか。逃げればいいのに。
逡巡ののち、土方は引き寄せた灰皿の上にそっと灰を落とした。
「……もう、寝ろ」
「土方さんも」
「うん、寝るから」
優しく言ってやれば、山崎の体から力が抜ける。懸命に起きようとしていた呼吸が次第に一定のリズムを刻み、だんだん深くなっていく。
彼女の目の前で煙草なんてきっと吸えない。彼女の体を害すとわかっているものを、彼女に触れさせるわけにはいかないからだ。
土方は煙草を揉み消して、山崎の隣に横たわった。その体を引き寄せ、腕の中におさめる。煙草の煙は土方と山崎二人の体を蝕んで、その匂いは土方と山崎二人の肌に、髪に、服に、長くその痕跡を残すだろう。どちらがどちらの匂いだか、わからなくなる程度には。
眠っているはずの山崎が小さく身じろぎして、土方の胸にすり寄った。土方は軽く目を閉じて、奥歯を噛む。山崎の眠りを覚ますほど強く、きつく抱きしめてしまいそうで自制する。
はやく逃げればいいのに。そうでなければ、きっと手放せなくなってしまう。代わりなどという言葉ではすまないくらいに、大切にして、守って、そうしてきっとそれは、山崎の矜持を踏みにじるだろう。
はやく逃げてくれればいいのに。そうでなければ、殺してしまう。
刀で死ぬのでも、病で死ぬのでも、きっと道連れにしてしまう。
そうなっても山崎は、怒るだけで逃げ出さないのだろう。
それは幸福なことだろうか。土方は目を閉じる。まだ肺の奥がちりちりと痺れている。喉が痛くて少し咳き込む。彼女の咳に少し似ている、けれど本当は、彼女の顔が、もうだんだんと思い出せない。
思い出せない。彼女は元気でいるだろうか。