自分より先に死んでくれるなというお前の懇願を聞き届けたのだから許して欲しい。
よく晴れた月夜だったのでその死に様はひどく美しく見えた。
流れ出る血は闇に溶け見えず、まるでただ眠っているかのようだった。
吐く息はこんなに白いのに、その白が、彼の口元からは零れておらずそれで、ああ、そうなのか、と納得して、それだけだった。触れた肌は冷たかったが、それは季節が、凍るような冬だったからなのか、それとも夏でも同じだったか、わからなかった。
名前を呼んでも返る声はなかった。
頬を叩いてみても特に目を開けたり呻いたりするようなことはなかった。
ひどい暴力を与えればあるいは文句を言って目を覚ますだろうかと思案したが、あまりに美しいその姿を損なうことは躊躇われ、やめた。
血の気を失った手が、それでもなお敵を斬らんと刀を握って離さなかった。
指を一本ずつ、引き剥がすようにして、刀を解放してやった。
あともう一度くらい抱きしめたかったが人が来たので叶わなかった。
あともう一度くらい抱きしめたかった。
こんな思いを引きずりすぎて、春が来たって捨てられなかった。知ればきっと彼は怒るだろう。情けないことだと憤慨するだろう。
けれど、お前に守られて、お前の望んだ通り、お前のいない世界で春が来るまで生きたのだから、その他のことは許して欲しい。
「すっかり遅くなっちまいましたね」
梅雨が来る前の湿気の多い、暑いのか暖かいのか曖昧な風に少し伸びた黒髪が揺れた。袖のボタンをはずしたシャツを腕まくって、山崎は大きく伸びをする。
「お前がぐずぐずしてるからだろ」
「土方さんが文句ばっか言うからですよ」
「お前がちゃんとしねえからだろ」
「土方さんが細かすぎるんですよ」
唇を尖らせて文句を言う山崎の少し後ろを土方は歩く。以前は逆だったな、と考えている。
前をふらふら歩いていた山崎は、くるんと回って土方を振り返った。文句を言っていた顔はいつの間にか笑顔になっていて、くだらない、どうでもいい、繋がりなどないような話を、歌うように喋り始める。
「今日の体育でね、沖田さんが体操服忘れたんすけどね、他のクラスに借りに行けばいいのにわざわざ俺の取ってくんですよ。ひどくないですかぁ?」
だらだらと語尾を伸ばして喋る、その癖。
仕事のときは背筋を伸ばしてきっちり喋るくせに、私語になると途端にこうなのだった。何度叱ったか知れないな、と土方は口元を緩める。しかし、仕事のときのような硬い喋りを、ここ最近はまったく聞いていない。緊張感がなければ死んでしまうような仕事など、この世界には、ないので。
物騒な命のやり取りは遠くの国か液晶画面の中の話だ。
「おい、転ぶぞ。前向け、前」
「はぁい」
子どものように土方の言うことを素直に聞いて前に向き直り、「だからね、俺仕方なくジャージ着て出たんですけど、暑くって!」話の続きを喋り始める。合間合間に後ろを振り向くので危なっかしく、仕方なく土方は山崎の隣に並んでやった。スポーツバック一つ分の距離。
「だからお前今日ジャージだったのか」
「そうですよ! ひどくないすか?」
「馬鹿がいるなぁと思ってたけど」
「ひどい!」
「だって今日、クソ暑ィのにジャージはねえだろ。馬鹿か女子かどっちかかと」
「あー…女子ってなんで暑くてもジャージ着たがるんでしょうねえ。俺あれ全然わかんね」
「日に焼けてどうこうじゃねえの」
「暑いよりそっち取りますか? 女ってほんとわかんね」
一生理解できない気がします、と言って明るく山崎は笑った。
土方は軽く目を伏せて、「そうだな」と小さく返す。
山崎の話は次へ移って、昼食の時間の近藤の話になった。ああ、とか、へえ、とか相槌を打ちながら、土方は山崎に気付かれないように小さく笑う。
あなたに惚れる女の気持ちがわかるような気が致します、と、同じ声で言ったことがある。
そのときの山崎はきれいな女物の着物を着ていて、髪を結っていて、唇に紅をさしていた。
思わず手を伸ばせばぱしんと叩かれ、艶やかに笑われ、行ってまいります、と言って姿を消した。
遠い遠い遠い遠い、誰も覚えているはずもない、遠い昔の話だけれど。
「山崎」
「へ、あっ!」
「馬鹿」
話に夢中になっていた山崎が小さな段差に足を引っ掛けて転ぶ寸前で、土方は手を伸ばしその腕を掴んだ。土方に支えられ膝を付くことを免れた山崎は、情けない顔で土方を見上げて
「すいません。ありがとうございます」
ふにゃりと笑う。
「気をつけろよ」
「はい、すいません」
「怪我してんじゃねえよ」
「してませんよ。おかげさまで。大丈夫です」
「……へらへらしてんなよ」
「はぁ、すいません」
バランスを正した山崎の腕から手を離して、今度はその手をきつく握った。
山崎は一瞬驚いたような顔をして、それからおそるおそる土方の顔を見上げる。戸惑ったような顔。困ったような、声。
「あの、土方さん……?」
「危なっかしくて見てらんねーから繋いどいてやる」
「え、あ、えっと、あの、……えー……」
「文句あんのか」
「ない…です、けど」
「じゃあ黙ってろ」
はい、と小さく頷いて、それでも納得できないように山崎は首を傾げている。
繋いだ手が暖かい。
土方は少し口の端をあげる。
「怪我すんなよ」
「はあ」
「気をつけろよ」
「はい、すいません」
「見ててやるから」
「は?」
「怒るんじゃねえぞ」
「は? えっと、何を?」
「俺が、お前を、」
守ることを。
繋いだ手に少し力を込めた。山崎は聞き取れなかったようで、首を傾げて困ったようにしている。笑い飛ばして額を弾いてやれば途端に怒った顔をして、痛いです! と文句を言う。
離されない手が暖かい。じんわりと汗をかくほどだ。
「山崎、お前さぁ。記憶力悪い方?」
「いや、どちらかっつったらいい方ですけど」
「だよなぁ」
「何ですか?」
「納得できねえなぁ、と思って」
「何が」
「お前が俺を覚えてねえのが」
「……は?」
「思い出しても怒るなよ」
「何の話ですか」
「さあ?」
山崎が怪訝そうな顔をして「気持ち悪」というので少し強めに殴った。喚いて文句を言った山崎は、それでも従順に手を繋がれたままでいる。
離すことを忘れているのか、土方が怖くて離せないのか、それとも。
「そのうち叶ったら、教えてやるよ」
あともう一度、一度でいいから抱きしめたかった。
そんな思いを引きずりすぎて、命の途切れた春を越え、夏を越え、秋も冬もすべて越えて幾百年、こんなところまで来てしまった。
山崎は何にも知らないくせに、それでも土方の傍にいる。当たり前のように傍にいて、当たり前に笑うので、全てが叶うと錯覚してしまう。
たとえばもう、傷つけなくてすんだり、危ないときには守ってやれたり、何より大事に優先できたり、そういうことを。
(……まあ、そう考えると、覚えてるのが俺だけでよかったのかも知れねえなぁ)
土方は薄く笑う。
悲しいのも空しいのも本音だが、覚えてなくてよかったとも思う。
美しく、愛おしく、地獄のようなあの世界のこと。
もし山崎が覚えていれば優しすぎると怒るだろう。
けれど全てを失ったあの夜のことを未だ尚夢に見るくらい好きなのだから、可哀想だと憐れんで、仕様がないと許してくれよ。
「なあ、運命って信じる?」
いつか交わした約束通り、もう一度恋に落として見せるから。