俺は実際山崎の服を捲って見るまでそんなことに気づきもしなかった。それぐらい山崎は巧妙に隠していたのだ。体育の着替えのときや、教室のじゃれあいの中でも。そういえば、水泳の授業のとき、山崎はいつもいなかったな、と今更ながらに思い出す。
肌の、日に焼けていない白い部分に散った、赤や紫の、痣。
二人で座る俺の部屋の中は少し蒸し暑い。窓の外ではきっと春らしい気持ちの良い風が吹いているだろうが、これから響くかも知れない物音や声のことを考えて締め切ってしまったのだ。失敗した。異常気象を疑うほどじっとりと暑い。
少し捲れたシャツを山崎の手が元に戻す。肌が隠れる。痣もだ。俺は知らずに唾液を飲み込んだ。どうしてなのかはわからない。
「両親が離婚してね、」から始まる山崎の身の上話は、悲しいくらいに有り触れた、目新しくもない話だった。両親が離婚して父親に引き取られた。やり直すための新生活の平穏は二週間も持たなかった。酒を飲んだ父親は毎晩のように暴れた。暴れた後に泣くのであまりに哀れで逃げられなかった。「それだけの話ですよ。普通でしょ」。山崎は締めくくって、いつもと変わらない緩い笑みを浮かべた。
「それって……」
その先の言葉がうまく続かない。
なんと声を掛ければいいのか考えあぐねていれば、山崎の緩い笑みが次第に困った顔に変わっていく。
「ごめんね」
ちっとも悪くない山崎が謝罪の言葉を口にして、シャツの裾をその指がぎゅっと握った。
「気持ち悪いでしょ」
「ばか、そんな、」
「変なもん見せてごめんね」
違う。
山崎は抵抗したのだ。触れるだけのキスには簡単に答えるから、いいだろうと思って服に手をかけたのは俺だ。抵抗されたのに、キスを深くしてその力を無理やり奪ったのは俺だ。いやだという声の甘さを、良いように解釈したのは俺なのに。
謝らなきゃいけないのは、俺だ。
なのに、喉が干上がって言葉が出ない。唇がひどく乾く。暑い。
部屋の温度だけ、静かに上がって行くようだ。風が強く吹いたのか窓がガタガタと音を立てた。
どうしよう。何を言えばいいだろう。
困り顔の山崎がどんどん俯いていって、ついに顔が見えなくなる。シャツの裾を握る指の先が、力の入れすぎで白くなっている。あ、泣く。思ったのと、山崎の膝の上に水滴が落ちるのがほとんど同時だった。
抱きしめたいと思うのに腕が躊躇って動かない。
触れたら、痛むかな。
「一緒にいたかったんです」
二粒目の涙と同時に落ちた言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
何の話だ?
「酒癖悪いの、前からで、それで別れたみたいなとこあって。母さんの方に付いていくって、本当は、それがよかったんだけど、でも、母さんの実家って遠くて、俺、いやで」
ずず、と鼻水をすする音。はぁ、と息が大きく吐き出される。そろりと伸ばした指で髪に触れたら、山崎の体が強張った。
「山崎」
「俺、……おれ、ね、沖田さんと離れんの、嫌で、」
搾り出すような声が聞いているだけで苦しくてこれ以上の痛みなんかない、と思ってしまったら腕が勝手に動いた。きつく抱きしめた後で、痛むだろうかと心配になったけど、俺よりずっと強い力でしがみつくように山崎の腕が背中に回って、爪を立てるようにされるので、もう、
「好きだ」
他に言うことなんてたくさんあるはずなのにそんな言葉しか出なくて、なのに山崎がそんな言葉に誘われるように嗚咽をあげて泣き出すので、愛しくて愛しくて愛しくて、大切すぎて、もう、どうしようもなかった。
見せてと言えば山崎はやっぱり抵抗して、それでも最後には自分でシャツの裾をまくってくれた。そんなことをさせる俺は意地悪だろうか。残酷だろうか。
鮮やかな肌に掌で触れる。山崎の体が少し震えて、「痛い?」と聞けば首を横に振る。グロテスクにも見える肌の色彩は山崎の肌だと思えばこの上なくきれいな色合いだと思ったけれど、それを口にするのは憚られた。代わりに、唇で痣に触れる。震える山崎の指が抵抗するように俺の髪を引っ張った。
暑い部屋なのに山崎の肌が冷たくて心地いい。ぺたりと腹の上に耳を当ててみる。血管が血を流すとくんという小さな音。山崎が小さく笑って、それさえ直接響いた。
「ありがとう」
やっと見つけた言葉は、有り触れすぎていて感動だって薄いかも知れない。
「何が?」
山崎は不思議そうに首を傾げて、やっと震えの収まった指で俺の髪を梳く。顔を見れば、泣いた跡が残っていて苦しい。愛しい。
好きだ、と思って本当は、それ以上の言葉なんてないのだけれど。
手を伸ばして頬を拭った。へらりと山崎が緩く笑う。まだ湿る目元にキスをして、頬にも触れて、ちょっと舐めたらしょっぱかった。
離れないでいてくれてありがとう、なんて、やっぱり有り触れすぎて陳腐な気がする。
言葉にするのをやめて、首筋に噛み付いた。ちょっと力を入れて吸えば、赤い痣が首筋に残る。
きれいだ、と、それは素直に口にできた。
山崎は少し目を見開いて、それから笑って、
「こういうのだったら、もっと欲しい、かも」
言った後に顔を赤くして照れたように眉を下げるのでそれがおかしくてやっぱり愛しくて、やっぱり何度考えたって、
「好きだよ、山崎」
それ以上にうまい言葉なんて見つからない。