尊敬だとか憧れだとか、そういう当たり前の感情でこんなにも息苦しくなるものだろうか。
分からない。息苦しくて、酸素を求めて喘ぐ。胸の奥に何か大きな塊が引っかかっているようで吐き気がする。今すぐここで地に伏して助けを請うたら、助かるだろうか。何に助けを求める? 何から? 分からないけれど。
ただこのきれいな横顔を見ていると苦しくなるんだ。この苦しさから逃げ出すことは、敵の陣地の真ん中から逃げ出すことよりずっと困難なように思えた。胸の辺りが塞がって、つっかえる奇妙な感覚。
「……副長」
呼べばこちらを向く。それだけのことなのに、俺はもう泣いてしまいそう。
「もう一回、言ってください」
さっき、俺の思考を根こそぎ奪った言葉を。
請えば、副長はすっと視線を逸らして煙草を吸った。ふっと吐き出された紫煙が一瞬副長の表情を覆い隠す。
「…………気にすんな」
何ですか、それ。思うけど言葉にならなかった。副長は俺に視線を向けないままで煙草を吸う。
この人の目に、頭上に広がる空は何色に映っているんだろう。青なのだろうか。俺と同じ。それとも別の色なのだろうか。たとえば俺にとっての赤色を青色だとそう、呼んでいるんだろうか。
それは俺には知る術がないし、副長も答えることなんてできやしないだろう。俺とこの人は別の人間で、同じではない。ただ、空は青だと教えられただけで、空の色を、赤でも黄色でも、ただ「青」と呼んでいるだけで。
だからこの人の心理なんて分かるわけがないのだ。さっきの言葉が本心なのか、それともただの気まぐれなのか。推し量る術は、俺には、ない。
「……仕事、行かなくていいんですか」
「行かねえとなァ」
「……行かないんですか」
「…………」
珍しい。副長が仕事をさぼるなんて。真撰組内では一番仕事に対して真面目な人だ。この人がこうして庭でさぼっているのを、ついぞ見たことがない。そんなことを思って見ていれば、ふ、と副長が笑った。
その、どこか苦笑に近い笑顔にさえ息が止まる思いがする。
尊敬だとか憧れだとか、多くの隊士がそんな思いをこの人に抱いているけれど。
そのうち一体幾人が、俺と同じように、苦しいと、そう思うのだろうか。
「山崎ィ」
「はい」
「お前さ」
副長はゆっくり煙を吐き出す。
「立派になったなァ」
「……はぁ」
何を言われるのかと少し身構えていた俺は、その言葉に些か拍子抜けをした。立派になった。どこが。そりゃあ、ここに来たばかりのときよりはマシになったとは思う。失敗も少なくなったし、こうして、副長や局長に声をかけてもらえるまでになった。
立派になった。そういって副長は苦笑をした。何故。立派になったと誉める響きではない。むしろどこか、咎めるような。……立派になって欲しくなかった?
「……それは」
思い立った答えを口にするのは憚られた。けれど、言いかけた以上は言わなければならない。促すように視線を向けられる。血の色がよく似合う鋭い目。それが少し、俺の前では和らぐ。
それを、知っている。
「独占欲ですか」
俺への。
「………そう思うか?」
副長が煙草を投げ捨て足で踏みにじる。苦笑は消えない。髪を掻き上げて、溜息。どうしてそんな、困ったような、困惑するような。俺は深呼吸をする。逃げてしまいたい。心臓が、馬鹿みたいに早鐘を打つ。花街の娼妓が言っていたのはこういうことなのだろうか。土方さんは素敵だと、溜息を零しながら。こういうことなのだろうか。息苦しくて吐き気がする。
「好きだぜ、山崎」
先刻と一字も変わらず。そう、言葉が落とされた。
息が、止まる。口を開く。酸素を取り入れようとして、上手くいかない。
好き。それは何だ。どんな感情だ。憧れや尊敬、そんなものとは違った。好き。それはただ単に部下を可愛がるための言葉なのだろうか。
どうなんですか、教えてください。
俺にはよく、分からないんです。
「……困るだろ?」
「……困るとか、困らないとか、じゃなくて……」
「何だよ」
「分からない…んです…意味が、よく……」
同僚に、お前イイ奴だなァと言われることは何度もあった。好きだぜそういうとこ、と誉められることも。それと同じですか。違うんですか。俺が困るような感情ですか。
「分からない、か」
「……はい」
ゆっくりと、息を吸い、吐く。頭の芯がくらくらする。心臓が早鐘を打つ。目の前の人の全ての動作を目で追う。分からないんだ。何も。この人の目に見えている景色や色や俺の姿や、この人の感情や思想、その全てを正確に把握することなんてできやしなくて。
それでも分かりたい。分かって、それから、
「こい、こっち」
手招きをされて、じり、と近づく。手を伸ばされて腕を掴まれた。そのまま、引き寄せられる。何も分からないと言っていながら俺は何が起きるのかを冷静に予想している。
目を閉じる。
唇に触れる熱。
「……俺も、好き、です」
その熱に浮かされるように小さく言った。副長は、笑ったのだろうか。唇に触れる空気が震える。
「好きですよ、土方さん」
言った瞬間自分の顔が赤くなったのが分かった。副長は少し驚いたように目を見張って、その後俺の髪をわしわしと撫でる。
「好きになったのは、俺の方が先ですから」
「バカヤロ、俺が先だ」
どうか。
どうか、この人の胸が俺と同じように苦しくどうしようもなくなっていますように。
それを知る術なんてないけれど。
息苦しくて泣きたくなって全身が痺れて眠れない夜が、この人にも訪れていればいいのに。