腕を動かすたびに、しゅるりと衣擦れの音がする。左手でそっと袂を押さえ、右手で細い筆を握る。紅を付けて、ゆっくりと唇に引いていく。丸い小さな鏡の中で、薄く白粉を乗せた顔が艶やかに色づいていくのを見る。我ながら、完璧だ。山崎は筆を唇から離して、静かに笑んだ。分け目を変え、左に多めに流した前髪を指で軽く撫で付ける。
後は、頭頂部から取り付けるタイプの鬘を付ければ、美しい女性の完成だ。元の顔立ちが薄い所為か、化粧一つで印象が様変わりする。女装が得意というのは本来男性として声高に自慢できることではないだろうが、確実に仕事に役立つこの能力を山崎自身は誇っていた。
さて、鬘を付けるかね、と振り向いたちょうどその時、部屋の襖が外から勝手に開く。
男だらけでプライバシーも何もない屯所内でも、機密書類の多い監察方の部屋は集合部屋でも個人部屋でも勝手に踏み入ることは許されていない。外から声もかけず襖に手をかけることが出来るのは、屯所内でも二人しかいない。そのうち一人は、権限を持っていても律儀に声をかけるタイプで、もう一人は、
「副長、どうしたんですか?」
煙草をふかしながら許可も得ずに部屋に入って後ろ手に襖を閉める、真選組副長その人。
「暇だ」
「ヒマってアンタ……人に大掛かりな潜入命じといて、自分はそれですか」
「るせェ」
眉間に皺を深く刻んだ土方は、一言放って勝手にその場へ座り込んだ。胡坐をかいて、女装をした山崎を上から下まで舐めるように見回す。
「なんスか」
「いや、毎度毎度よく化けるなと思って」
「そりゃどうも」
短い会話の間も飽きもせずに自分を見つめる視線に、山崎は居心地が悪くなり小さく身じろぐ。
「髪は?」
「今から付けるんです」
「いつもみてェに網被らなくていいのかよ」
「今回は、自分の髪に噛ませる奴にしたんです。まとめちまうから見ても分からないでしょうし、今からの時期蒸れるとしんどいんで」
「へー」
興味なさそうな相槌を打ちながら、土方は腕を伸ばして山崎の髪に触れた。長くもなく短くもない山崎の髪は、今は後ろで小さくまとめられている。まとめきれなかった短い髪が、顔の横で静かに揺れていた。それを指でゆっくりと梳いて、土方はおもしろそうに笑う。
「……なんですか」
「いや? いつもは髪まで女みてェにしたとこしか見たことなかったが……」
こういうのもいいな、と。
喉の奥で低く笑う声に羞恥を誘われ、山崎はふいと顔を背ける。その所為で土方の指から山崎の髪は奪われたが、土方は何も言わず低く笑っただけだった。反対に、髪に触れる指のなくなったことに寂しさを覚えた山崎が、そんな自分にますます羞恥を深くする。
逸らした顔を戻すタイミングが掴めず、かと言って鬘を取りに行くことを口実に立ち上がれば不自然な動きになってしまいそうで、どうしたものかと山崎が思案しているとその膝にとさりと土方の頭が乗っかった。
「……何してんスか」
「横になってんだよ。見てわかんねーか」
「いや、あのね、俺はアンタに頼まれた仕事の為に準備をしなきゃいけないんですが……」
「うっせえ」
山崎の膝枕で横になったまま吸いかけだった煙草を吸おうとする土方の動きを、溜息を吐きながら山崎がやんわりと止めた。片眉を吊り上げた土方に構わず、山崎は指で摘んだ煙草を卓の上に置いてあった灰皿に押し付ける。
「寝煙草禁止」
「……チッ」
「ちっ、じゃありません。俺を丸焦げにするつもりですか」
軽く笑った山崎は、膝の上に納まった土方の頭をそっと撫で、先程自分がされたような優しさでその髪をゆっくりと梳いていく。
「何かあったんですか?」
「別に。ただ忙しくて死にそうなだけだ」
「お休みになれば良いでしょうに」
「それが出来たらとっくにしてる。どいつもこいつも、副長副長って……ちったァ自分で考えろってんだ」
苛々とする土方の髪をあやす様に梳きながら、山崎は優しく笑ってその愚痴を聞く。
「もう少しの辛抱じゃないですか。今のとこ、大きな捕り物はコレだけでしょう?」
「ああ。その代わり、長丁場だがな」
「局長も、沖田隊長もいらっしゃいます。俺もいます。何もかも、一人でやろうとするから、大変になるんですよ」
「わーってるよ」
髪をゆっくりと梳く山崎の指の動きと諭すような物言いに、土方の眉間に刻まれた皺が徐々に消えていく。このまま眠ってしまわれたら面倒だなァ、と山崎が思い始めた頃、緩く閉じられていた土方の目がゆっくりと開いた。
見下ろしていた山崎の目線とかち合う。
じいっと見つめる土方の視線に山崎はうろたえつつ、かといって身体を引くわけにも行かず、
「……なんですか」
本日何回目かの疑問を投げかけた。
土方はそれに答えず、伸ばした右手を山崎の頭の後ろにかけ、そのままぐっと力を入れる。
「痛っ……なん……っ」
深く屈み込む格好になった山崎が不自然な姿勢に抗議を上げるが、土方の腕の力は弱まらない。どころか更に力を強められ、そのまま至近距離で目を覗き込まれて、山崎は視線を揺らした。
「……土方さん、痛いです」
「あっそ」
「……土方さん、」
「何」
「…………いいえ」
何でもありません。と観念した山崎をおかしそうに笑った土方は、そのままゆっくり唇を開く。口吻けには、距離が足らない。土方が少し頭を浮かせれば、唇が触れ合う距離。しかし土方はそれをせず、見せ付けるように殊更ゆっくりと舌を伸ばして、まずは、山崎の上唇を、紅を塗るようにゆっくりと舐め上げた。
「…………ッ」
静かに息を呑む山崎に、土方の目が楽しそうに細められる。
至近距離で覗き込まれていることにも、唇を合わせないまま舌で舐められていることにも耐えられず、山崎はきつく目を閉じる。ぎゅうっと閉じて視覚の情報が遮断された瞬間、同じように下唇にゆっくりと舌を這わせられた。
「…ぁ……」
反射的に山崎の唇が開くが、土方はそれには関与せずただ丹念に下唇の紅を舐め取っていく。目からの情報がないため、土方の舌の感触がよりいっそうリアルに感じられ、山崎はますます固く目を閉じた。
触れたときと同じようにゆっくりと離れていった舌が、味わうようにぴちゃりと音を立てるのを聞く。頭を押さえつけていた手の力が緩んだのを感じ、名残惜しく思う自分に呆れながら山崎は身体を起こした。変に力を加えられていた首が痛い。
「不味い」
「……だったら、舐めなきゃ、いいでしょう」
拗ねたような山崎の言葉に声を上げて笑った土方は、自分も身体を起こして今度は正面から山崎の顔を覗きこんだ。反射的に後ろへ引きかける身体を、手首を掴むことで阻む。
「甘いって言って欲しかった?」
「……アンタ、本当、バカですね」
苦々しげに言う山崎の唇を、土方は今度こそ自分の唇で塞ぐ。
触れ合わせ、吸い上げて、舌を差込み、舌を絡めとり、舐め上げ、きつく吸い、優しくなぞり、唇で唇を丹念に愛撫しながら、土方はそのまま体重をかけていく。手首を掴まれたせいで逃げられない山崎は、元より逃げるつもりもなく、成されるがままに土方に押し倒された。そのままどれくらいの時間だろうか、合わせていた唇が離れる頃には、お互いの息が上がっている。
「……はぁ…は……着物……」
「…んだよ……」
「……皺になったら……はぁ…どうするんですか……」
「………知るか……」
息を整えた土方は、そのまま山崎に覆いかぶさった。抵抗もせずに、山崎はその頭を柔らかく抱く。口吻けをするでなく、首筋に触れるでなく、ただ静かにそうしている土方の後頭部を優しく撫でた。
「布団、敷きましょうか?」
「……してーの?」
「寝てください、マジで。隈ひどいですよ」
「…………」
「仕事から逃げてきたんなら、いっそそのまま休んでって下さい。夕飯の時間には起こしに来ますから」
「…………」
「それとも、添い寝して寝かしつけて欲しいですか?」
からかうような山崎の言葉に、土方はむくりと起き上がる。不機嫌そうに眉を寄せて、寝る、と一言言った。それを笑って山崎は布団を敷くために立ち上がる。
「俺の部屋なら邪魔されませんし、ゆっくり眠れますよ」
そう言って布団を取り出すために押入れを開けた山崎の腰を、後ろから土方の腕が絡め取った。そのままきつく力を込めるので、山崎は身じろぎをする。
「……寝るんでしょうが」
「添い寝」
「は?」
「添い寝して、寝かしつけろ」
「…………」
「お前の今日の仕事。副長命令だから」
「……はいよ」
力なく笑いながら答えた山崎の頬を、土方の指が滑る。そのまま顔だけ後ろを向かされて、不自然な体勢で口吻けを迎えた。離れる寸前、小さく伸びた舌に薄く唇を舐められる。
「……何」
上機嫌な顔になった土方とは対照的に不機嫌そうに聞く山崎の眉間を、土方が指でなぞる。
「甘くないから癖になるんだな、と思って」
その言葉にわずかに顔を赤らめた山崎を、今度こそ本当に楽しそうに土方が笑った。