細い、細い、筆を握って、筆先を紅色に浸す。
 研いで磨いた足の爪に、筆先をそっと乗せて、一塗り。
 塗り残した部分に再度筆を乗せた途端、手が震えて、爪を逸れて肌へ紅色が付いた。

 苛々しているのは、ひどく綺麗な女の人の指先が、目が覚めるほどの紅色だったからかも知れない。






「お前、これ、怪我でもしたのか」

 早く退室しようと思ってそそくさと立ち上がった山崎の赤く染まった足先を見つけて、土方が怪訝な顔をした。
 慌てて足を隠すより先に、体温の低い手が山崎の足首を捉える。その冷たさにびくりと肩を揺らした山崎は、両手に抱えた書類の束に皺を寄せそうになって慌てた。
 大切な書類を部下に渡した張本人はそんな山崎の様子に構わず、煙草の煙を燻らせたまま山崎の爪先をまじまじと見る。
(……あ、灰が落ちる)
 長くなった灰が山崎の足の甲に落ちる直前で、土方はやっと煙草を灰皿に押し付けた。その間も、足首を握った手は離さない。
 いい加減居心地が悪くなり足を取り戻そうと力を入れる山崎を下から見上げて土方は、「座れ」と一言静かに言った。
「え、やだ」
「はぁ? やだじゃねーよ。座れ、ほら」
 山崎の拒絶に眉を上げた土方は、ばしばしと畳の上を叩く。その上ぎりりと足首を掴んだ手に力を入れられて、山崎は大人しく従うより他なかった。
 書類をぐしゃぐしゃにしてしまわないように、という山崎の配慮も知らず、土方は座り込んだ山崎の足をぐい、と引っ張る。慌てる山崎に構わずその足を膝の上に乗せ、赤く染まったつま先を、指ですっと撫でた。
「血じゃねェのな。染料?」
「女の人が、爪を染めてるアレです。どんなもんかと思って使ってみたんですが、失敗して……」
 爪を逸れ、肌に付着した染料を土方の爪が擦った。くすぐったいのか痛いのか分からない感覚に山崎はびくりと身を引く。またも抱きしめそうになった書類を、慌てて畳の上に置いた。


 そもそも、仕事が片付かないからさっさと来いと部屋に呼び出したのは土方で、確かに土方は先ほどまでマジメに仕事をしていた。文机の上には、書類がばらばらと広げられている。
 それなのに今ではすっかり山崎の足先に感心が行っているようで、多分、仕事はいいんですかと山崎が聞いたところで手を離しはしないだろう。


 仕事が片付かないからと呼び出さなければ、今日はできれば会いたくなかった。
 そう思って唇をそっと噛む山崎の心持も知らず、土方は飽きずに山崎の爪先に触れる。


「落とさねェの?」
「落とすには、専用の薬品がいるみたいで、……」
「ふうん」
 楽しそうに口角を上げる土方の様子に、山崎は苛々と奥歯を噛み締めた。二度、三度と爪先に触れ、いいもんだな、と言う。
 その言葉に強く噛み締めた奥歯が、ぎり、と嫌な音を立てた。
「…………こういうのが、お好きですか?」
「は?」
 自分でも思わぬほどに低く暗い声が出て山崎は慌てる。その様子に不思議そうな顔をした土方が、そこでやっと山崎の様子がおかしいことに気付いて、その顔を覗き込むようにした。
 顔を背けようとする山崎の頬に手を当てて、どうした? と聞く。触れる手が冷たくて、山崎は目をきつく瞑る。

 目を合わせれば、何か言ってしまいそうだった。
 昨日のあれ、何ですか。とか。

 だから今日は、会いたくなかった。


「……爪を、整えたり、染めたり……そういう女性がお好みですか?」
「何言ってんだ? 大丈夫か?」
「そういうのがお好みでしたら、次の女装のときからはそうさせてもらいます。他に何かご要望はありますか? 栗色の髪の方がいいとか、肌はなるべく白い方がいいとか、髪飾りの色は緑青がいいとか、着物の色は……」
「おい山崎」
 顎を持ち上げられて、痛みに開いた目が真っ直ぐ土方に射抜かれた。
 様子のおかしい山崎に苛々としたように溜息を吐く。それが嫌で山崎は顔を逸らそうとしたが、顎をきつく掴まれて叶わなかった。
「お前、どうした。何かあったか?」
「別に……何も、」
「別に何もって感じじゃねーから聞いてんだ。言いたいことがあるんなら言え」
「別に、何も、ありません」
「……テメェ、いい加減にしろよ」
 苛々と、顎を掴んだ指に力が込められる。痛みに顔を顰めた途端、その指が外された。爪が顎の裏の皮膚を傷つけるようにして離れていく。
「……ッ」
 睨み付けるように山崎を見る視線に、山崎の苛立ちが募る。
 いい加減にしろ、と、言いたいのはこちらの方だ。
 口にするべき不満でないから黙っているのに、それを言わせてどうしたいのだろう。
 言っても詮無いことだから言わないでいたいのに、どうして。


「昨日、」
 山崎は少し目を伏せて、口を開いた。
 目を、見ながらはとても言えなかった。目を見ずとも言いたくはなかったが、言えと言うなら仕方がない。
 聞いて後悔すればいいんだ。聞かなければよかったと。
 どうせ、更に苛立たせることになるのに。こんな不満。
「金色通りで、綺麗な女性と会っていらっしゃいましたね」
「昨日? ああ……」
 アレか、と土方は頷いた。それが何だというような反応に、苛々と、山崎は自分の足に爪を立てる。
 それが何だというようなことだとは、分かっているから言いたくはない。
「いくらそういう界隈とは言え、路上で抱き合われるのは見苦しいと思いますよ。嬉しそうにしておいででしたが、ああいう方が好みとは、全然知りませんでした」
「は? お前、何、」
「俺をあの方面の巡回に回したのは副長だったと思うんですけど。わざわざあんな現場を俺に見せてどういうつもりですか。……と、俺は言った方がいいですか?」
 目を合わせないまま滔々と喋る山崎に土方が次第に慌てていく。せめてこちらを向かせようと伸ばした腕をぱしりと振り払われて、土方は動きを止めた。
 土方の方を向かないままの山崎の眉が次第に寄っていく。足に爪を立てた手が、かすかに震えている。
「本当に、綺麗な人でしたね。爪の先まで手入れの行き届いた、艶やかな、」
「山崎!」
 目を合わせないまま紡ぐ声まで震えているのに気付いて、土方は山崎の肩を強く掴んだ。びくりと身体を強張らせた山崎の顔をそっと覗き込む。
 薄く、涙が滲んでいた。
 それを悟られまいとするように、山崎はきつく目を閉じる。
 反対に、きつく目を閉じたことで、眦に涙が滲んだ。
「違うんです……」
 ぽつり、と、搾り出すような声。
「違う、違うんです。違う、そうじゃなくて、そうじゃ、なくて……」
「…………」
「副長が、どこで、何をしようと、俺には関係がないし、俺が、どうこう言うことじゃないんです。だから、嫉妬とか、そういうんじゃなくて…………」
 無言のまま土方が、山崎の髪を一掬い。そして優しく撫でていく。
 目を開けるのが怖くて、山崎はこれ以上無理なほど、きつくきつく目を瞑った。
 目を開けて、視線が絡むのが怖い。
 だってきっと、何も言わない目の前の人は、きっと、優しい目をしている。
「そういうんじゃ、なくて……」


 白い、細い腕が、よく知っている首に巻きついていて、きれいな長い指の先が、鮮やかな色に染められていた。
 その赤が、好きな人の、黒い髪によく映えた。


「…………嫉妬……なんですけど…………」
 震える言葉に伸びた指が、眦に滲んだ涙を拭った。
 そのまま頬に手を当てられ、目を閉じているのをいいことに勝手に唇を塞がれる。
 触れて、離れて、また触れる、あやすような口吻けを繰り返されて、薄く開けた山崎の目に再び涙が浮かんだ。
「…………だから?」
「え……」
 唇の離れたすぐの距離で、囁くように問われて山崎は意味が分からない。前髪を掻き揚げられて、額に口吻けられる。土方は唇まで冷たく、対象的に自分の火照った体が強調されるようで山崎は身を縮めた。
「だから爪先塗ったのか?」
「……ぅ……」
 口篭る山崎をおかしそうに見て、土方はそんな山崎の頬に、瞼に、唇を寄せていく。
「仕事で昔世話になった女だ。あの辺に行くと大体捕まって店に来いって言われるんだがな、お前の言うように往来で抱きつく女はあんまり好きじゃねェから、ああいう類の女はどっちかっていうと苦手だな。嬉しそうにしておいでってのは、テメェの見間違いだろ。卑屈になって思い込んでんじゃねーよ」
「だっ……て、」
「そんで勝手に嫉妬して? 対抗して爪まで染めて?」
 おかしそうに一つ一つ確認をしていく土方の言葉に、山崎は呼吸を止める。居たたまれない。何を馬鹿なことをと一笑に付されるほうがまだマシだった。
 恥ずかしさとやるせなさと少し残った怒りで顔を赤くする山崎の頬をするりと撫でて、


「お前、本当に可愛いな」


 笑った土方は、不恰好にも赤く染まった山崎の爪先に口吻けた。


 畳の上に重ねておいた書類の束が、うろたえた山崎の手に当たって、ばさりと散らばる。
 けれど、もう、二人とも、仕事どころではなかった。

      (08.07.12)