最初にそういう意味で好きだと思ったのはいつだったか定かではないが、最初にそういう意味で好きだと言ったのはとどのつまり抱きたいと、そういう意味だったように思う。汚らしい独占欲と性欲とが混ざり合ったどろどろとしたものを、いつもへらへらしているあの顔に擦り付けてしまいたいと思ったのが最初で、それが自分の中だけでは抑え切れなくなったので、つまりはそういう意味で、口にしたのだった。
けれど、口にした先から後悔をして、後悔をした先から山崎の方が嬉しそうに「好きです」と返すものだからどうしようもなく、だからと言って本当に抱かせろと言うには覚悟が足らず、結局は、生ぬるいまま、距離を保っている。
というのが現状。
土方は咥えた煙草のフィルターを噛んで、傍らに座る山崎をちらりと見た。山崎はそんな土方の視線には気付かず、手元に広げた紙面を汚い字で真っ直ぐに埋めている。時折手を止めて、細い指で電卓をカタカタと叩いた。その音だけが土方の耳に届いて、やりきれない。
まだ長いままの煙草を灰皿に押し付け……ようとした灰皿は、長さを保ったままの煙草で溢れかえっていた。舌打ちを一つして、隙間にねじ込むようにする。押し出された煙草が何本か落ちて灰がぶわっと舞った。
顔を上げた山崎がその様子を見て眉を顰め唇を歪める。
「煙草を吸わないっつーのはいいことだと思いますがね、長いまんまの煙草をそうやって突っ込むのはやめませんか。勿体ないし、うっとうしい」
生意気な口を利くだけ利いて、再び顔を伏せてしまう。その横顔を睨みつけて、土方は着物の内側を探った。煙草を消した先から苛々としたのでやはり吸おうと決めたのだが、そこにはもう煙草が残っていない。気付いて、盛大に舌打ちをする。ストックを探そうと机の上を漁ったが、そこにももはや煙草は一本も残っていなかった。
「当たり前ですよ。長いまんまの煙草、何本無駄にしたと思ってんスか」
顔も上げずに言って、山崎はわざとらしく溜息を吐く。
「何に苛々してるのか知りませんけどね。いい機会じゃないですか。禁煙して下さい」
テメェに苛々してんだよ、とは言えず、土方は自分の机の上に積まれた本を乱暴に腕で払った。ばささ、と派手な音をさせて本が落ちる。驚いて顔を上げた山崎は一度怒ったような顔をして土方を見、そして、それからひどく困ったような顔をした。
「どうしたんですか?」
コト、と筆を置いて、山崎は土方へと向き直る。ちら、とその視線が腰の辺りを見たのは、刀の有無を確認したのだろう。帯刀しているときに余計なことを言えば斬られる、とでも思っているのか、刀がないことを確認した山崎はほんの少しだけ緊張を緩めた。
緩めて、そして、膝だけでつつ、と土方へ近寄る。
「副長?」
怖い顔をしている土方を山崎は困惑したまま見つめて、それから、畳の上に散らばった無実の本たちに手を伸ばした。拾い上げ、鮮やかな色をした表紙をその指が優しく撫でる。
「手荒に扱うと傷みますよ」
ぱんぱん、と付いてもいない埃を払うようにして山崎はぱっと顔を上げ、それからにこりと笑って見せた。土方の神経を逆撫でしないように、この少し張り詰めた怖い空気を消し去るように笑ったのだろうけれど、そのへらへらとした笑顔は土方の苛々を増しただけだった。
着物の袖から覗く手首を引っつかんで、ぐいと勢いよく引く。うわ、と色気のない声を上げた山崎は簡単にバランスを崩して土方の胸へと倒れこんだ。抱えていた本が、再び派手な音をたてて畳に落ちた。
「……副長?」
困惑した声が胸元から響いて、土方は、その頭をぐっと押さえつけた。
抱き寄せられる形になった山崎はそれ以上何も言わず、暴れもせず、ただ大人しく土方に身体を寄せて、それから少し笑ったようだった。
恐らく。どくどくと耳の奥で聞こえるのは、自分の心臓の音だろう、と土方はどこか冷静に思っている。耳の奥で響いているそれは、胸に頬を押し付けている山崎に聞こえているだろうかと気付いて少し焦った。様子を窺おうとして見下ろした先に、黒い柔らかい髪の毛の間から覗く真白い首筋がある。
思わず指でつ、と撫でれば、山崎の肩がぴくりと跳ねた。
白い首を手で覆うようにして、それからゆっくりと滑らす。柔らかい髪がふわふわと土方の手に触れて、暖かくくすぐったい。身を縮こまらせている山崎の頬へその手を滑らせ、少しだけ力を入れた。逆らわず山崎はゆっくりと顔を上げ、目を伏せたままで、
「土方さん」
と、か細く呼んだ。
目を、伏せているので、視線が合わない。大して長くもない山崎の睫が小さくぱさぱさと動いている。頬に当てた手に、唇の震えが微かに伝わった。その唇から吐き出す吐息まで、どこか震えていた。
頤へ指を滑らせてくっと上向かせる。左右へとさ迷った山崎の視線が暫くしてようやく観念したように、土方へと向けられた。絡んだ視線に土方の方が息を呑んで目を細める。こくり、と山崎の喉が上下した。薄く開いていた唇がぎゅっと閉ざされたのを合図にして、土方はそっと顔を近づける。
唇へこうして触れるのは、二度目だった。
触れ合わせ、強く押し当て、力を緩めて、ゆっくりと離し再び押し当てる。だんだんと緩く開いた山崎の唇を、土方が離れる間際に一度軽く吸い上げた。びくりと山崎の身体が縮こまって、その指がそろそろと土方の着物を握った。
例えば、だ。
顔が熱くなって心臓が高鳴ってどうしようもなくなるような気持ちがあればよかったのだ。
縮み上がるような切なさと笑い出したいような暖かさが胸に宿ることがあるならば、よかったのだ。
それを理由に好きだと言って、それを理由に触れたいと思えるなら。
恋と、そう、呼べるような甘い気持ちであれば、触れるのにも、抵抗などなかったろう。罪悪感の一つもなく、触れることができたろう。
「山崎」
短く呼べば、閉じていた目をすっと開けて山崎が微笑んだ。触れている頬が常の体温よりも、恐らくは少しだけ高かった。けれど、殴るとき以外でそれほど長いこと触れていたことはないので、自分の錯覚かも分からなかった。
熱い頬を撫でて、髪に触れ、それを耳へ掛けてやればくすぐったいのか身を捩る。その背中に手を這わせ一撫ですれば、じゃれるようにしていた動きがぴたりと収まった。
「手荒に扱うと、傷むか」
先程の山崎の言葉を思い出して、同じように言った。
山崎は伏せていた目をぱっと開いて土方を見ると、突然おかしそうに笑い出した。けれどその笑い方が、いつものように馬鹿らしいものではなくて、くすくすと押し殺すような艶を含んだ笑い方だったので、土方はぐっと息を呑んだ。
「それは、えらく今更ってもんですよ。あんだけ殴ったり蹴ったりしておいて、今更それを聞くんですか?」
笑って山崎はそう言った。言って、初めて山崎の方から手を伸ばして、土方の耳の辺りの髪を優しく撫ぜる。
「傷みませんよ。大丈夫。俺は本より丈夫だし、何より」
そこで言葉をぷつりと切って、山崎はすう、と細く息を吸った。
それから、
「あなたが好きですから」
土方が見たこともないようなきれいな笑い方で笑って、優しく土方の髪を撫でた。
恋、であれば、よかったのに。
恋であると断言できるものであったなら、よかったのに。
それともこれを恋というのか。土方には分からない。じりじりと胸の奥が焦げ付くような、言葉が喉の奥に引っかかって上手く形にならないような、吐き出す息すら震えるような、焼けていく思いを恋というのか。分からない。
奪い去りたい、と思うこれを、恋なんてきれいな言葉で人は言うのだろうか。
もっと、甘いものではなかっただろうか。
甘くて切ない、少しだけ苦い、そんなものではなかっただろうか。
これは単なる独占欲ではないだろうか。本能が間違って刺激され、欲に突き動かされて「欲しい」と思っているのではないだろうか。
手放したくないから手放さない為に刻み付けておきたいという、単なる執着ではないだろうか。
少し細い、けれど女よりもしっかりとした身体をそっと倒す。畳の上に山崎の黒い柔らかい時折良い匂いのする髪が広がって、はさ、と音を立てた。
これは女ではないので、いろんなこと、例えば布団を敷いてやった方がいいだろうかとか、灯りを薄暗くしてやった方がいいだろうかとか、そういう配慮はする必要がないだろうか。土方は少し考えて、結局すぐに考えるのはやめた。
これは女ではないが、それでも、少しは優しくしてやった方がいいのだろうとそれだけ気にしておけば、あとはいいような気がした。
そんな土方の逡巡を見破ったのか、山崎は嬉しそうに目を細めて土方の手に触れる。甘えるように指を絡ませて、甘えるように、「ねえ副長」と声をかけた。
「ねえ、副長、覚えておいてくださいね。俺はあんたがずうっと好きで、あんたをはじめて見たときから好きで、あんたが俺の名前を知るよりかずうっと前から、あんたの傍にいたいと思っていたんです。あんたが俺を思うよりずっと俺はあんたを思っているし、あんたが思っているよりも、ずっと、俺は」
あんたのためならどうなったっていいと、そう思っているんですよ。
と、一息に言った山崎はそれから恥ずかしそうに目を伏せて、馬鹿みたいでしょう? と小さく呟いた。
そこで土方は初めて、一つの事実に思い至る。
欲望のままに好きだと告げて、それに好きだと山崎が返して、それで思いが通じ合ったものだとそう思っていたのだけれど、山崎の「好きです」という言葉は土方の言葉に対する返事などではなくてただの事実だったということ。欲であれ恋であれ土方が持っている気持ちが、どういう種類のものであっても、ただ「好きです」と、それだけが山崎の真実であったということ。
だから今こうして土方が山崎を組み敷いているというそのことが、単なる欲望の発露であったとしても、山崎は大人しく受け入れるのだろうと、そういうこと。
そこで土方は初めて、一つの事実に思い至るのだ。
「山崎、俺ァな」
熱くなった頬を撫でて、耳に触れて、頤を爪で緩く引っかいて、絡んでいる方の指にぐっと力を込める。
「言ったろう。好きだって」
思いが通じ合っていなかったという事実に思った以上に胸が痛み心臓がひやりとして喉の奥が塞がったので、これは、結局は。
「お前が好きだ」
結局は、独占欲であって性欲であって執着であって、それと恋との境は、あまりないと、そういうこと。
山崎の唇が嬉しそうに綻んで、「土方さん」と名前を呼んだ。伏せていた目をすっかり閉じてしまい甘えたように絡んだ指に力を入れるので、土方はそのまま唇を啄ばむ。
乱れた着物の裾に手を差し込みながら、視界の隅にちらりと映った色鮮やかな表紙の本に、ああ優しくしなければな、と、それだけ、思い出した。