汚い。と一言、山崎が顔を顰めて言った。
「何が」
「食べ方? 何でそんなぼろぼろのぐちゃぐちゃになってんですか。あと手も汚い」
 生臭そう。と、やはり顔を顰めて言う。
「るせェ、食えりゃいいんだよ、食えりゃ」
 箸先で汚らしく目の前にある魚を突きながら土方は言う。
 左手は山崎の言うように汚れている。身をほぐすときに指で押さえたり骨を取ったりしたせいだ。ちっ、と舌打ちをして、おしぼりで手を拭った。
「食えりゃいいって、それほとんど身残ってますよ」
 もったいなーい、とだらだらした口調で喋る山崎は、言うだけあってきれいに魚の身をほぐしている。正しい箸使いでぺろんと背骨を丸ごと剥がしてみせて、どうです? と得意げに笑った。
「おお、すげーな」
「俺、こう見えて器用なんですよー」
 にこにこと嬉しそうに笑って、空になっている土方のグラスにビールを注ぐ。作法通りの注ぎ方をしてみせながら、ちらちらと視線が動いている。
「どうだ?」
「まだ、一人みたいですね」
「本当に今日来るのか?」
「さぁ? 予定では、そのはずですけど。こればっかりは何ともね」
 少し席の離れた場所に座っている一人の男の挙動を気にしているのだ。
 垂れ込みによれば彼は攘夷浪士で、月に一回この店で別の仲間と情報交換をしていると言う。
「まあ、俺はおいしいものが食べれて嬉しいんで、いいです」
「仕事しろよ」
「仕事もしてるじゃないですか」
 まず、あなたの相手とか。
 自分で言った言葉におかしそうに笑って、山崎はグラスを傾けた。喉がごくごくと動いて、その苦味のある大人の味を飲み干していく。
「それァ、仕事か」
「仕事です」
 あからさまに不機嫌になった土方に、山崎は怯むことなく笑顔を向ける。
 さすがにこれを理由に殴っては恥ずかしいだけだと知っている土方は、舌打ちをして顔を背けるだけにした。その不機嫌な横顔へ山崎はここぞとばかりに言葉を放る。
「俺のいちばん好きな仕事ですよ」
 頬が赤くならないかなぁ、と土方の横顔を見ているのだけれど、薄暗い照明のせいで、山崎にはよくわからない。


「それ、」
 行儀悪く箸でぴっと山崎が指したのは、土方の前で無残な姿を晒している焼き魚である。
「俺がほぐしましょうか?」
 土方はほじくるように箸で少しずつ身を削っていて、それを本当に少しずつ口に運んでいる。たまに小骨が口の中で見つかって、顔を顰めて吐き出したりしていた。
 マヨネーズはかかっていない。ここでマヨをかけてしまえば、よりいっそう骨を取り出すのが困難になるということは、土方だって分かっている。
「頼む」
 山崎の言葉でずいと皿を押し出した土方に、山崎が軽く眉を上げた。
「手、お拭きなさいよ」
 汚いですよ、と生意気に言って土方の皿を受け取った山崎は、無残な姿の魚から骨を丁寧に除きながら、
「でもね、条件があります」
「はぁ?」
「俺がほぐしてあげるから、マヨは禁止」
「はァァァ? ふざけんじゃねーぞお前、つうか条件ってのは普通、はじめる前に出すもんだろうが」
「条件聞く前に皿寄越したのは自分でしょう?」
 何が楽しいのかくすくす笑いながら、山崎は土方の魚から骨を取り除いていく。
「だいたいね、自分で食べてちゃマヨがかけらんないどころか、まともに食べれもしないんだから。いいじゃないですか。おろしと醤油で十分美味いです」
「マヨがねーと食べた気がしねーんだよ」
「大丈夫です、腹はふくれますから。あ、土方さん」
「……なんだよ」
「俺ちょっと手が離せないんで、ちゃんとホシ見ておいてくださいね」
 熱心に魚を見つめながら山崎はぞんざいに言った。
 お前それが上司に口利く態度か! と怒鳴ろうかどうか迷って、ここで騒ぎを起こしても仕事にならないから、と思い直しぐっと耐えた。そこは大人なのだ。魚の骨が上手く取れなくたって。
 言われた通り、離れた場所に座る男に目を向ければ、男はいまだ一人で寂しくグラスを傾けていた。ときどき店員に何事か話しかけている。店員の、同情するような、面倒くさそうな表情を見る限り、愚痴でも言っているのだろう。
 これはガセだったかな、と土方は溜息を吐いた。
 目当ての男が禁煙席に座りやがったので、煙草を吸うこともできない。
 マヨもダメ、煙草もダメ。ちっとも楽しくねぇな、と苛々しながら山崎へ視線を戻せば、まだ熱心に魚の骨を取り除いていた。
 少しの小さな骨も残さないように丹念に骨をさらって、すっかり食べやすそうになっている。
 自分の食事は放ってしまって、一生懸命土方の魚を食べやすくしていく山崎の姿に土方は少し唇の端を持ち上げた。
 まあ、なかなか、楽しいかもしれない。


「はい、どうぞ」
 土方がじっと見ている視線に気づいていただろうに、その間少しも顔を上げなかった山崎は、すっかり魚の小骨までなくなってしまってからやっと伏せていた顔を上げた。
 ちびりちびりとビールを飲んでいた土方は、「ん」と短く言って皿を受け取る。
「マヨかけちゃダメですよー」
 笑いながら言って、土方が何か言うより先にだーっと醤油を魚の上にかけてしまった。
 ダメですよ、ともう一度念を押して、山崎はやっと自分の魚へ向き直る。
「そんだけ骨取るの苦手だったら、魚食べるの嫌いですか?」
「別に嫌いじゃねえよ。魚自体は好き」
「でも、ほとんど食べれないですよね」
「うるせぇな。何が言いてぇんだ」
「いや、別に。大変そうだなぁと思って」
 じゃあ鰤とか、骨ほぐさないで食べれるのがいいですね、と一人納得したように山崎は頷いた。
「何がだ」
「土方さんに振舞うのが。あと、食べに行ったりするときでも」
「んな機会があるのか?」
「作ろうと思えばあるでしょ。俺は好きですよ」
「何が」
「こうやって二人でご飯食べるの」
「……あ、そ」
「でもやっぱり目の前でマヨ搾り出されると食欲減退するっていうか。あと、絶対体に悪いだろうなーと思って気になるんで、やめてください」
「うるせぇ。お前は俺のオカンか」
「それでも別に、いいですけどね」
 似たようなもんでしょう? と笑って山崎が示したのは、先ほど山崎が取り除いて見せた骨の山だ。
 世話を焼いてるって意味で、ということだろう。土方は山崎をにらみ付けるが、それさえ楽しいのか、山崎は軽く声をあげて笑った。
 しかしまあ、食べやすい。
 よほど丹念に取ったのだろう。小骨ひとつ残っていない。土方はほぐされた魚の身を口に運びながら、目の前で披露されている山崎の箸遣いにも感心する。
 何でもできないように見えて、何でもできる男なのだ。
「お前、いい嫁になるな」
 からかうように土方が言えば、怒るだろうと思われた山崎は小さく笑っただけだった。
 呆れるでなく怒るでなく怪訝な顔をするでなく、ただ楽しそうににこにこしている。
「じゃあ、」
 添え合わせの漬物に箸を伸ばしながら、
「土方さんが、もらってくださいね」
 上機嫌に山崎は言った。
 は? と口を開けた土方の箸から、ほぐされた身が零れ落ちる。
 汚いなぁ、と山崎は少し眉を顰めて、それから視線をちらりと移した。
 目当ての男はなお、一人で杯を重ねている。
「ガセですかね」
「……だろうな」
「残念」
 土方はひとり少しだけうろたえていて、山崎はひとりなんでもないような顔でいる。
 マヨネーズをかけていない魚は、魚本来の味がしっかりしている。
「しあわせにしてあげますね」
 残念、と言ったのと同じ口調で、しれっと山崎が言った。
 魚をすっかり食べ終えてしまったのか、土方の漬物にまで手を伸ばしている。
「お前が俺を幸せにすんの? 逆じゃねーの?」
 うろたえるまい、と顔を魚に向けたまま言った土方に、山崎の笑い声が振ってくる。
「ばかだなぁ」
 上機嫌だ。もしかしたら山崎は、酔っているのかもしれない。
「俺はもう、ずっとしあわせだもの」
 笑い混じりでそう言った。
 薄暗い照明の中で、山崎の頬がうっすら赤くなっているのは、照れているのではなく酔っているのだ。そうに違いない。
「……あ、そう」
 俺だって、という言葉が、土方の喉に引っかかった。
 俺だって今で十分幸せだ、と、刺さった小骨のように引っかかって、飲み込めもしないし外へも出ない。
 山崎を見れば、にこにこと上機嫌で笑っている。そのくせ時々視線を動かして、見知らぬ男の背中を観察している。
 刺さった小骨のような言葉を土方はビールで勢いよく流し込んだ。
 空になったグラスに、山崎が絶妙なタイミングで作法通りにビールを注ぎ足したので、それが出来すぎていて、土方は少しだけ腹が立った。

      (08.10.28)