唇を離した途端甘い雰囲気の吐息をつく隙もなく、「痛ぇ」と顔を顰めて言われても困るんですけど。
「いてえ」
「……それはわかりました。何がですか」
ちょっと来いと手招かれたから傍に寄って、傍に寄ったらいきなり唇を塞がれて、塞がれるのみではもちろんすまず隅々まで貪られて、こちらは息も絶え絶えだというのに何その嫌そうな顔。と山崎は顔を顰めた。殴っていいかな。いいよね。と考えながら拳をぎゅっと握っている。
腕を振るにはちょっと難しいくらいの近い距離だ。
「いてーんだけど」
「だから。何が」
「くちびる」
「は?」
これ、と土方は顔を軽く顰めたまま言って、山崎の唇をちょいと指で触った。お互いしかめっ面で、相当親密でないと許されない距離で、向かい合っている姿は多分傍目に見たら結構滑稽だ。
「くちびる?」
「かっさかさ。ひっかかっていてーんだよ」
言いながら、軽く頭をはたかれた。
「った! 何だそれ、勝手にキスしたのあんたでしょうが」
「俺がいつキスしてもいいようにつやつやにしとけよ、唇は」
「気持ち悪っ」
「あァ?」
片眉を上げた土方が、すごんだままで山崎にぐい、と顔を近づける。
反射的に目を瞑った山崎の唇を、土方がやわらかく噛んだ。
荒れて皮の向けた唇が、歯にひっかけられてぴりっと痛む。
「……痛い」
「だろ?」
ふふん、と勝ち誇ったような顔で土方が笑った。何がそんなに嬉しいのか山崎にはさっぱり分からない。歯でやんわり引っかかれた部分の皮が余計にめくれて、今の今まで気にならなかったのに、唇がとつぜんひりひり痛み出した。山崎は顔を顰める。舌でちろっと舐めてみれば、血の味がするような気がした。
「何かもっと手入れしろよ、そういうのは」
親指で山崎の唇をやわらかく押さえて土方が言った。皮の厚い指で擦られて、ひりひりと痛みが増す。痛いです、という抗議は、唇の動きを制限されているせいで上手く言葉にならなかった。
何が楽しいのか、やわやわと唇を押さえられて山崎はきゅっと目を閉じる。ちょっとこれはなんだか恥ずかしい雰囲気だぞ、と思って、ぞくりとした。唇に押し当てられている親指を噛んでみれば離してくれるだろうか、と考えるけれど、一歩間違えばキスだけじゃあすまないな、と気づいてやめる。
痛いんだけど殴っていいかなあ、と山崎が、殴る意思とは無関係にぎゅうと手を握れば、それに気づいたわけでもないだろうけれど、土方の指がするりと離れた。
「女装すんとき困るだろうが」
「別に、困らんでしょう」
「何で」
「しないもん、女装。最近そういう案件もないし」
「わかんねーだろ、いつ何時必要になるかはよォ」
と、土方が殊更言い募るのは、土方自身が山崎の女装を案外気に入っているからだ。
「まあ、そうですけど」
「つーか、そうじゃなくても、俺が痛ェっつってんだよ」
再び軽く頭を叩かれた。
いやいや、じゃあキスしなきゃいいんじゃね? と山崎は思う。が、余計に殴られたくないので黙っておく。
「何かねーの。塗るやつ」
「リップクリームですか? あるにはありますけど……」
「じゃあ塗っとけよ」
まだマシになんだろ、と言って、土方は山崎から少し体を離した。
そこで初めて山崎は、今の今まで土方の腕が自分の腰に回っていて、どうやら身動きが取れなくなっていたことを知る。別に逃げようとも思わなかったので、ちっとも気づかなかった。
これはそのリップクリームを今すぐに塗れということなんだろうなあ、と理解して、山崎は気だるげに立ち上がる。舌で触れれば確かに痛いが、山崎自身はこんな荒れなど別にどうということもないのだ。こんな傷を気にするくらいなら、殴って腫れる頬とか、切れる唇の端とか、痣になる脛とか、そういうものを気遣って欲しい、と半ば真剣に思う。
殺風景な部屋の隅にちんまりと置いてある鏡台の引き出しをがたがたと引いて、その中にきれいに並べて置かれているケースの一つを手に取った。
「貸せ」
蓋を開けようとする山崎に土方は言って、手を伸ばす。
素直にその手に丸い小さなケースを渡せば、土方が少し怪訝そうな顔をした。
「これか?」
「はい」
「これァお前、口紅じゃねーの?」
「違います。いや、違わなくはないですけど。色つきリップです」
「はあ? 何でそんなもん持ってんだ」
「あんたの命令で女装をすることがあるからでしょうが」
何言ってんだコイツ、という目をわざと作ってじっとり見てやる。が、山崎のその冷たい視線には構わずに、土方は、何でこれしかねーんだ、という不満を続けて口にした。
「薬用の切らしてるんですよ。それはそんなに濃い化粧しないときのグロスに使えるかなぁ、と思って買ったんです」
「お前の口から化粧の用語が出ると気持ち悪ィな」
「そんな俺に誰がしたんですか」
「オレオレ」
土方の無骨な手が慣れない様子で容器の蓋を開ける。山崎より少し大きい手の中で、その淡い色を詰め込んだ透明な容器は、ますます小さく可憐に見えた。
「おら」
「はい?」
「来い」
短く言って、ちょいちょい、と手招きをされる。大人しく従って前に座れば、ぐいと腰を抱き寄せられて先ほどと同じくらいの位置まで体を寄せられた。
「近いです」
「黙ってろ」
土方の指が淡い色のきらきら光るクリームを丁寧に掬って、それをちょん、と山崎の唇に乗せる。それから唇の形をなぞる様に、ゆっくりとその指が動いた。
「……自分で塗れますよ」
「だから、黙ってろって」
上唇を塗り終わった指が、またクリームを掬って今度は山崎の下唇をゆっくりと這う。
「ひ、じかたさん、」
「何」
「これ、はずかしいです」
「うん。知ってる」
にや、と土方の唇の端が持ち上がって、目がいやらしく細められた。
うわぁ遊ばれてる! と逃げ出したくなるが、その気配を読み取った土方の腕ががっしりと腰に回ってしまって逃げられない。
満遍なくクリームを塗られててかてかになっているであろう唇から土方が指を離さないので、どうにも山崎はやりきれない。
背筋がぞくぞくするのだ。勘弁して欲しい。
「も、いいですって……」
「仕方ねぇな」
土方の胸をやんわり押し返すようにすれば、意外にあっさりと指は離された。
「勘弁してくださいよ……」
何この恥ずかしい感じ、ともごもご文句を言いながら山崎は自分で自分の唇に触れる。これはちょっと塗りすぎじゃないの、という感じがするが、鏡がないので分からない。
まあ、用途はリップだしいいのか、と思って少し俯かせていた顔を上げれば、先ほどまで大変上機嫌だった土方が、やけに難しい顔をしていた。
「土方さん?」
今ので何を不機嫌になることがあろうか、と不思議に思って声をかけるが、土方は黙ったまま山崎を凝視している。
怖い。何かこれ怖い。けれど、逃げ出そうにも逃げられないのはさっきの挑戦で挫折済みだ。
「……土方さん?」
おそるおそる再度声をかける。あれ自分今何したっけ何かしたっけ、と短い間の記憶を反芻していると、今度は先ほどまで楽しそうに唇に触れていた指で強引に顎を掴まれた。
「いっ……」
たい、と続くはずだった声は、あっさり土方の唇に飲み込まれる。
突然のことに目を見開いたままの山崎の視界に、ぼんやりと土方の端整な顔が映っている。ちょっと焦点の合わなくなるくらいの近さだ。うわ、と山崎が事態に気づくのと同時に、薄く開けられていた土方の視線と山崎の視線が合わさる。
途端、一層深く舌を差し込まれ、山崎はきつく目を閉じた。
「ん、…っん、ん、……ふ、……んんっ」
舌を絡められ擦られ呼吸を奪われ、鼻にかかる甘い声が漏れるのさえ飲み込まれていくようだ。
何がどうしてこうなった、と山崎は霞がかる意識の中で懸命に考える。が、答えは出ない。もっとも、答えが出たってどうしようもない。
ぎゅ、と土方の衣服を握れば、抱き寄せられていた腰をするりと撫でられた。
背筋が痺れて、山崎が身を竦ませる。
甘さと苦しさで意識が朦朧としてきた辺りで、ようやく唇が解放された。
「……っ、はぁ…、は、……なん、ですか」
「お前さ、」
呼吸を整える山崎の頬を、同じように呼吸を整えながら土方が撫でる。
やはり苦い顔をしている。
「これ使うな。外でつけんな」
「……は?」
これ、て何。と一瞬考えて、先ほど土方が塗りたくったリップクリームのことだと思い至る。
「何でですか?」
「素直にはいっつっときゃいいんだよ。今度ちゃんと普通のやつ買ってやっから、それ付けろ。いいな」
「はあ……」
何だこの人、と怪訝な顔をする山崎の様子を意に介さず、土方は再び山崎にくちづける。
軽く触れ合わせられただけのそれは、山崎が抵抗しないのをいいことにどんどん強く、深くなっていく。
こんだけキスしてたら、リップ塗った意味がないんじゃないのかなあ、と思うが、それを口にする隙も与えられない。
痛いっつって最初にやめたの自分でしょう、とか、塗れっつったの自分でしょう、とか、言いたいことは沢山あるのにちっとも声になってくれない。
せっかく少し潤ったのに擦り合わせて切れたのか、触れ合わせている唇から、少しだけ、血の味がした。