山崎、と名前を呼ぶその声が、色っぽく掠れている。熱が籠っている。
 体内の熱を吐き出した後特有の虚脱感と疲労で大きく吐き出されたその吐息が、耳元にかかって熱い。山崎がそれに身じろげば、土方の眉間に刻まれた皺が深くなった。
 熱がずるりと引き抜かれ、体が触れ合っていた部分の面積が少しずつ少なくなっていく。まだ過敏なままそうされたので、山崎は得体の知れない不安に襲われて思わず土方の背にしがみついた。土方はそれで少し動きを止めたけれども、舌打ちをしそうな気配で、そのまま構わず山崎から離れきってしまった。


 悲しい、というよりは、空しいのだ。涙の薄い膜越しに天井を見上げながら山崎は息を吐く。部屋には酒の匂いが充満している。それに籠ったような独特の臭いが混ざり合って、ちっともいい気分ではない。一刻も早く風呂に入って体を清めて干したばかりの自分の布団で眠ってしまいたいというのに、動けないのは、体を横たえている布団から土方の匂いがするからだった。少しも、動こうという気になれないのだ。


 そうこうしているうちに土方は自分の始末を終えて、申し訳程度に山崎にも手を伸ばした。いい気分でそうするならまだしも、どうせ土方のそれは義務感なので、山崎は億劫ながら体を起こして土方の手をやんわりと止める。何、と顔を上げた土方の顔が少し赤くなっている。
 酒を飲んだ後に激しい運動をすると酔いが回りますよ、と言おうかと迷って、やめた。言っても聞きはしないだろうし、お前も良かっただろうなどと親父っぽい言葉は聞きたくなかった。
 せめて濡れタオルが欲しいなあ、と思いながら懐紙で処理をして、その間に体の熱もすっかり冷えてしまったので手近にあった着物を素肌の上に直接纏った。ふと見れば、土方の着物だった。それがちょっと嬉しくて山崎が微笑むのを、土方は何も言わず煙草片手に見ている。


 時刻はもう、三時を回っていた。
 年が開けて一番最初にすることがこれってどうなんだ、と山崎が頭を抱えるところまで土方はじっと見ていて、それから灰皿を引き寄せてまだ長いままの煙草をもみ消してしまう。
 そんな土方の様子に気づかないでうんざりした顔をしている山崎の手首を、土方の手が不意に掴んだ。
「……なんです」
「お前、始末終わったんならこっち来いよ」
 酔っている、と思っていたのに、意外にしっかりとした声音であることに山崎は驚く。熱を放出して酔いが覚めたのか。それとも、酔っているけれど酔っていないように見えるのか、どちらだろう。と考えたきり動かない山崎に焦れて、土方が掴んだ手をぐいと引いた。あっさりバランスを崩した山崎は、けれどそれに文句を言うこともない。よつんばいのままで土方に近づき、その膝の上に小さく収まった。
 下着を身に着けただけの土方の上に、半分以上素肌を曝け出している状態で座っている。この状態はまずくないか、と山崎が思う間に、土方の顔がずいと近づいて、山崎の唇を軽く食んだ。煙草の味がする。決して愉快ではない。けれど、不快でないのだからどうしようもない。
 薄く目を開けたままで互いの唇を触れ合わせる。柔らかく唇を食まれるだけの状態に、山崎の方が焦れた。ねだるように口を開ければ、土方はそれに逆らわず舌を山崎の口内に捻じ込む。消えたはずの熱が徐々に燻り始めて、あともう少しで火がついてしまう、と山崎は震えた。それは土方も同じで、山崎の腰から背中にかけて緩く這い回っていた手の動きが早くなっていく。
 これ以上は無理だ、と少し慌てて、山崎は土方の体を押しやった。
 離れた土方の顔が、分かりやすく不満げだ。それが妙におかしくて、山崎は小さく笑う。からかわれたと思ったのか土方が山崎の首筋に噛み付いた。
「やっ……ちょ、ねえ、土方さん、ダメですってば」
「何が」
「初日の出! 行くんでしょう、局長と」
 言えば、土方の動きがぴたりと止まる。名残惜しそうに山崎の首筋に一度舌を這わせてから、今度はあっさりと体を離した。
「お前も行く?」
「俺は残ってもちつきの準備してます」
「ふうん」
「もう寝た方が良くないですか?」
 まだどこか不満そうな土方の髪を山崎が優しく撫でる。その扱いが気に入らなかったのか、土方がその腕を取って、そのまま山崎を膝の上から布団に落とした。驚く山崎を組み敷くようにして、慣れた様子で体の動きを封じる。
「……俺、寝た方がいいんじゃないですかって今言ったと思ったんですけど」
「まだ寝なくてもいいんじゃないでしょうか」
「馬鹿なこと言ってないで、寝てください」
 やはり、酔っているのだろう。土方は不機嫌さを隠そうともせず、抗う山崎の胸元に唇を押し当てる。冷えた肌に少し熱を持った唇が触れて、山崎の体が小さくはねた。
「ちょっと! マジで勘弁してくださいって! 明日忙しいんだから」
「山崎、」
「つーか重いマジ重い」
「山崎」
 不意に、真剣な声が耳に届いて、山崎は暴れていた体を止めた。
 顔を上げた土方が真剣な目で山崎を見下ろして、もう一度、「山崎」と名前を呼んだ。
「なん、ですか?」
 土方の手が動いて、山崎の手を縫いとめるようにきつく握る。指が中途半端に絡まって、もつれてしまったような錯覚を山崎は覚える。
 繋いだ手が、どくんどくんと脈打っているけれども、どちらの脈だかよく分からない。お互いの血液がここで混ざり合ってしまって溶けていくんじゃないか、という非現実的な考えが、ゆっくりと山崎の頭を支配していく。
 その間、真っ直ぐな視線に射抜かれて、山崎は身動き一つ出来ない。
 じっと山崎を見つめていた土方が、ふっと少し微笑んだ。

「好きだよ」

 低い、掠れたような声。
 熱が籠っている、けれども、熱だけではない、柔らかい声。
 優しく、甘やかすような、愛しむような視線で絡め取られて、手は、溶けてしまうほどに縫いとめられて、鼓膜が声で犯されていく。
 かっと上がった熱に耐え切れず、山崎は土方の視線を振りほどいて顔を背けた。顔が熱い。赤くなっているのが自分でも分かる。
 けれども相手は酔っ払いだ。落ち着け。自分自身に言い聞かせて、山崎は深呼吸を一つした。
「何なんですか、いきなり」
 恥ずかしさを誤魔化すために、怒ったような声音になってしまう。しかし土方はそれを気にせず、上半身を屈めて山崎の耳元に唇を寄せた。
 吐息が耳にかかって熱い。山崎はきつく目を瞑る。

「俺ァ、お前が好きだよ」

 そんな距離でそんなことを言わないでくれ、と山崎は唇を噛んだ。
 繋いだ手が一度解かれて、今度は一本一本絡ませあうように繋がれていく。

「俺ァお前が好きだ。多分一生、死ぬまで好きだろう。俺はお前を離してやれねェ。お前が離れることを許せねェ。逃げるならどこまでも追いかけて、それでも逃げようとするなら、俺はお前を斬っちまうだろう。だァらお前は、」

 鼓膜に直に響く低い声に、山崎は固く目を瞑っている。だから、土方がどんな表情をしているのか、山崎には分からない。
 閉じた瞼の隙間からじわじわと涙が滲んでいく。悲しいやら嬉しいやら分からない。ただ感情が高ぶって、考えが気持ちに追いつかない。
 その間も土方は山崎の耳に唇を寄せている。言葉を切って、考え込むように黙ったまま、吐息だけが山崎の耳朶に触れている。

「……ずっと俺の傍に、いてくれるか?」

 やっと届いた言葉に、山崎がかっと目を見開いた。じわ、と涙が浮かぶ。
 土方は山崎から少し顔を離して、答えを待つように黙り込んだ。体は山崎の動きを封じ込めたままで、視線は山崎を射抜いたままだ。
 山崎は震える吐息を吐き出して、自分を見下ろす土方に視線を向けた。
 土方の顔が真剣だ。けれどどうせ、この人は酔っているのだ、と山崎は思っている。酔っているこの人の言葉に、重要なことなど何ひとつないのだ、と自分に言い聞かせている。
 約束は何一つ守らないし、言ったことも覚えちゃいない。どんなに真剣な顔をしていても、ちっとも意味がないのだ。分かっている。けれど。
 泣いてしまう。嬉しいのか悲しいのかわからない。感情がただただ高ぶって泣いてしまう。さっきまではまるで物のように扱われて、いいように動かされていたのに、言葉を思い出した途端にこれだ。
 繋いだ手から、届く言葉から、魂が抜き取られてしまう。
 これではまるで都合のいい女と同じだと、分かっているのに。

「俺は……」
 答える声が少し震えた。土方は黙ったまま、続きを促すように繋いだ手に力を込める。
「俺はずっと、あなたの傍にいるし、離れろって言われたって離れてなんてあげれません。知っているくせに、分かっているくせに、それを聞くのはずるいです」
 ひどいです、と詰るように言った。
 土方はその山崎の言葉を、息を詰めるようにして聞いていて、聞き終わると口元を緩めて笑った。繋いでいた手を片方解いて、そっと山崎の頬に触れる。

「傍にいろ。そしたら、幸せにしてやるから」

 言って、くちづけが落とされた。
 柔らかく触れるだけのそれは、熱ではなく、愛おしさと優しさだけが滲んでいる。
 山崎は目を閉じてそれを受けながら、少し泣きたい気持ちでいる。
 こんな言葉を自分が奪ってしまってもいいのだろうか、という不安が渦巻いている。この人の人生の中にはきっと、その言葉を貰い受けるに相応しい人が何人もいるはずなのに、こんな甘く優しい言葉を、たとえ一時の気まぐれでも、奪ってしまっていいのだろうか。
 目を開ける。土方が目を細めて山崎を見、繋いだ手を引き寄せてそこにも唇を落とした。

「……土方さん、」
「ん?」
「俺はね、言ったじゃないですか。今で十分、幸せなんですよ。もうこれ以上あなたから、もらうものなど何一つ、ないんですよ……」


 だからもう寝ましょう、という山崎の言葉に、土方は素直に従った。
 布団に横たわり、離れようとする山崎の腰を抱き寄せる。
「俺は部屋に戻りますってば。局長が起こしにくるだろうのに、俺がいたらヤバイでしょ」
「その前に、お前が俺を起こせばいいじゃねェか」
「そんなむちゃくちゃな……」
「お前な、言ったそばから離れようとしてんじゃねーよ。いいから黙ってここで寝ろ」
 ぐい、と土方は乱暴に山崎の頭を布団に押し付ける。
 しばらく暴れていた山崎だったが、土方が引かないと諦めて、体に入れていた力を抜いた。
 途端、抱き寄せられて腕の中に抱えられる。
「……せめて何か着たらどうです?」
「俺の着物は誰かさんが着てっから」
「返します」
「いいよ、着てろよ。で、黙れよもう」
「……これじゃ寝づらくないですか?」
「黙れっつってんだろ。口塞ぐぞコラ」


 土方はあっという間に寝息を立ててしまって、山崎を抱えていた腕からは自然に力が抜けていく。山崎は少し土方から離れて、まったくの無防備で眠る土方の寝姿を凝視した。
 悲しい、のではなくて、空しいのだ。
 こんなことが一生続くわけがないと分かっていて、それでも、もしかしたらと思ってしまう。酔っての約束なんて絶対に覚えていないと分かっているのに、それでも、約束をしてくれようとしたことが嬉しくてたまらない。
 土方が山崎に幸せを与えようとしなくたって、傍にいることが許されているというただそれだけで、山崎には十分な幸せなのだ。幸せが大きすぎて、体中から溢れてしまうのではないかと思うほどだ。
 山崎はゆっくりと目を閉じる。今年最初の夜が明ける前に、傍らに眠る人を起こして、身支度を整えさせて、それから自室にこっそり帰って。それまで山崎は眠れない。
 今年最初の夜が明けたら、土方はきっと、酔ったうちに言ったことなんて、ほとんど忘れてしまっているだろう。自分がどんな恥ずかしいことを言ったかだなんて、それで山崎をどれほど嬉しがらせたかなんて、きっと覚えてはいないだろう。


 一生続くわけがなくても、あと少し、もう少しだけでも。
 祈るように思って伸ばした山崎の手は、山崎の怯えをあざ笑うかのような簡単さで、土方の手に包まれたのだった。

      (09.01.01)




期間限定で新年あけおめフリー企画にしていたものです。(現在は配布終了しております)
今年もよろしくお願いします!の気持ちを込めまして。