腕の中から抜け出そうとする山崎の腰に絡んだままの土方の腕に、山崎が呆れたように小さく笑い声を洩らす。
「じかん」
窘めるように言う声がちっとも枯れていない。少しだけ甘い。いつもの、高く通る山崎の声だ。
渋々解かれた土方の腕のぺしぺしと軽く叩いて山崎が笑い、その指が枕の上に広がる土方の黒髪を優しく梳く。甘やかすような視線と仕草。土方が目を細めて山崎の指をからめ取る。山崎は少し、困ったような顔をした。
「仕事の前に、」
「…………」
「部下に、こんな無茶をさせる上司も、そういませんよ」
するりと山崎の指があっけなく土方から離れた。口元に笑みを浮かべながらさっさと体を起こし着物に袖を通す山崎を、土方は横たわったまま見つめる。明かりのない部屋で、山崎の白い体だけがぼんやりと浮き上がっている。黒い髪が闇に溶けて、そのまま消えてしまいそうだ。
「仕事の前だからだろ」
起きあがり、枕もとに腕を伸ばして、放ってあった煙草の箱を引き寄せる。咥えて、軽く吸い、火をつける。ライターの明かりが一瞬部屋を明るくして、すぐに消えた。煙草にともされた小さな火だけが部屋のわずかな光源となる。
しゅるしゅると衣擦れの音をさせながら、山崎が情事の痕跡を消していく。
「仕事の前だから、すんだろ」
「それは何の理屈ですか?」
「恋人の理屈」
煙を細く吐きだしながら、なるべく平坦な声を作って言った土方を、山崎はゆっくりと振り返った。それから困ったように眉を下げて、小さく笑う。
「勝手ですね」
「納得づくだろ」
勝手に一方的にこんなことをしているわけじゃ、ねえだろう、という気持ちを込めて山崎を見つめた土方の視線から、山崎はさっと顔を背けた。帯をきゅっと結んでしまって、白い肌を隠してしまう。
仕事の前なので、ひとつの痕も付けられなかった。
見えない場所にひとつくらいなら、と土方は少し後悔する。
これではまるで何も、最初からなにひとつ、なかったようじゃないか。
「……あんたが、」
自分が横になっていたことで乱れた布団の端を、山崎の指が神経質になぞる。
「あんたが、そういうことばかり言うから、」
俺は。震える声で続けて、山崎が視線だけで土方を仰ぎ見た。白い喉がこくりと上下する。ああここに噛みつくのもそういえば忘れていたな、と、白い煙を吐き出しながら、土方は後悔する。
「俺は、ここを離れられなくなるんです」
ひどいひと。
女のような声で言って、顔を上げた山崎がちょっと笑った。
離れる必要なんてねえだろう。その言葉を土方は飲み込む。代わりに緩く煙を吐きだした。その仕草は山崎には、馬鹿にするようにも見えたのだろう。肩を竦めて、顔を伏せてしまう。神経質そうに布団の端を撫でる、細い指。
こんな布団、いくらでも乱していけばいいのに。
乱れて乱して痕跡を、あからさまなくらいに残していけばいいのに。
離れる必要なんて、ねえだろう。
言えないのは、それを言ったときの山崎がどういう反応を返すか、土方にはまだ分からないからだ。
「……いつ戻る?」
渦巻く言葉と感情を全て飲み込んで、静かに低い声を出す。それにほっとしたように山崎が肩の力を抜いたのが分かった。
言わねえよ、お前が言ってほしくないことなど。
怯えているようにも見える山崎の様子を見ながら、土方はため息の代わりに煙を吐く。
「大体でいい。どんくらいかかる」
「そうですね、五日……最短で五日でいけると思います。十日戻らなかった場合は、死んだものと思ってください」
「わかった」
「報告はいつものように?」
「ああ、逐一入れろ。分かってるだろうが、深入りだけはすんじゃねえぞ。無理だと思ったら戻って来い」
「はい」
「お前が死んだら、困るからな」
すぱっと言いきった土方に山崎が小さく笑みを浮かべた。灰が落ちそうな煙草に気付いて、さっと灰皿を寄こすそのタイミングが手慣れている。馴染みすぎて不思議だと思わない程度には。
「それは、何の理屈ですか?」
「上司の理屈」
「俺が死んだら副長は困ります?」
からかう様に言った山崎に、土方はわずかに尖った視線を向ける。
「勘違いすんなよ。十の情報のために優秀な部下に死なれたら、その後の百の情報は誰が見つけてくるんだ。十のために死ぬくらいなら、生き恥晒してでも生き残って、後で千の情報持ってこい」
一息に言って、灰を落とした煙草を灰皿にそのまま押しつけた。
小さく灯っていた明かりが消える。窓の外に広がるのは曇り空で、今夜は本当に明かりのない夜だ。
「……ひどいひとだ」
「何が」
「だから俺は、あんたから離れられなくなるんですよ」
闇の中ぼんやり浮かぶ山崎の白い指が伸びて、土方の頬を軽く撫でた。
そのまま移動した指先は、土方の唇に触れる。
「キスしていいですか」
吐息の交じって零された問いに、土方は山崎の腰を抱き寄せることで答えた。
唇に触れていた山崎の指は土方の肩の上に止まり、細い指の代わり、柔らかな唇が土方のそれに落ちる。
ゆっくり。
じんわりと、熱を伝えるように。
熱だけ残していくように。
「……十日以内には、帰ってきます」
「ああ」
「……ね、わかってますか?」
「何だよ」
「俺はね、」
土方の肩に乗っていた山崎の手がふわりと離れた。土方の腕の中からあっさりと抜け出して、山崎がおかしそうに笑う。明かりもないのにくっきりと。
「俺にとっては副長の、……違うかな、土方さんの、あんたの隣が帰る場所なんですよ。どうしようもなく」
「…………」
「他に行き場がなくて、まったく、嫌んなる」
俺はねえ本当は最初はこんなとこすぐにやめてさっさとどこかに行ってって、そういう生き方をするつもりだったんですよ。
軽やかに笑って山崎は立ち上がる。また少し皺の寄った布団を指先で少し撫でつけていく。
「煙草の買い置きは一番下の引き出しです。マヨはもう半分くらいしかないけど、ちょうどいい機会だし控えて下さいね」
「るせえ」
「はは、行ってきまーす」
ひらひらと手を振った山崎は音もなく襖を開けて、その向こうに姿を消す直前で
「土方さん」
立ち止まった。
「どうした」
「ひとつお願いが」
「あ?」
「俺はひとつ所におさまっているのは本当に本当に苦手なので、また多分、逃げ出したくなることもあると思うのですが、」
「……」
「次に俺がそんなこと言ったらね、」
ふふ、と空気を揺らして山崎が笑う。
向こうに向けていた顔をくるりと土方の方へ向けて、きれいな笑みを見せた。
「離さないって、言ってください」
少しだけ甘い、高い、いつもの、土方の耳によく馴染む山崎の声で、甘えるように。
「……何だそりゃ」
「恋人の理屈、です」
言って、山崎は自分の言葉がおかしかったのか小さく吹き出した。くすくすと押し殺したような笑いを零しながらもう一度土方に向かって手を振り、今度こそするりと姿を消す。
音もなく静かに閉まった襖をしばらくの間見つめて、土方は深く息を吐き出し布団の上に勢いよく体を倒した。
ばさ、と巻き起こった風に煽られてわずかに立ち昇るのは、煙草の匂いと、山崎の体臭だ。
きれいに着物に隠されたあれの体からも、煙草の匂いがするだろうか。そう思えば、わずかに嬉しい。
「……ひでえのは、どっちだよ」
離さない、なんて。
言えるわけが、ないだろう。
奥歯をきつく噛みしめて、土方は二本目の煙草に手を伸ばした。