深い藍色の着物に舞うのは漆黒の蝶。
大人しく趣深く。合わせて塗る紅も薄く、ただ目元を強調する黒だけが濃い。長く伸ばした睫毛が白粉をはたいた頬に影を作る。
すでに完成しているように見えるその嘘をさらに重ねていく山崎を、土方は横でじいっと見つめている。
「……やりづらい」
唇の輪郭を色鉛筆のようなものでなぞっていた山崎が、顔をしかめて言った。
「あ?」
「見過ぎ。あんま見られてっとやりづらいんですけど」
「いいだろ別に」
「暇なんですか」
「じゃねえけど」
「じゃあ仕事しなさいよ」
「おめーが働きすぎは体に毒ですっつーから休んでんだろうが」
「だったら自分の部屋でゆっくり昼寝でもしたらどうです」
「お前の傍が落ち着くんだよ」
ぴた、と山崎の動きが止まり、ゆっくりとした動きで顔が土方へと向く。
嫌そうな顔をしているが、その頬が赤い。それは別に化粧のせいではあるまい。してやったり、と土方は口の端を上げ、煙草の煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
落ちそうになった灰を見咎めて、山崎がすっと灰皿を差し出す。その手の、爪の先まできれいに彩られていて、これは何だ趣味か、と土方が苦笑した。いつもはきらきらと何か付いていたりするのだが、今日は色合いも落ち着いている。どういう類の仕事だったか、と思い出そうとするが、山崎に命じている仕事は種類が多すぎて、今回の女装が一体何のためなのか土方には少しも分らなかった。
忙しいので自分で考えて好きに動けと言ってある。
使えるものはなんでも使えよ、と言ってあるから、山崎はときに体を開いて代わりにとんでもない情報を持って帰ってきたりもする。金の代わりに情報を貰うだけでやっていることは遊女と変わりがねえなと以前揶揄したら、変わりますよ俺は逃げるためじゃなくあんたに貢ぐために対価を持って帰ってくるんだ、と笑った。つまりはそこいらの遊女よりもたちが悪い。
こいつをこんな風にしたのは俺だっけな、それとも出会ったときからこうだったか、とぼんやり考える土方に呆れたようなまなざしをひとつ向けて、山崎は再び鏡に向き直った。なぞった唇の輪郭に合わせて紅を塗り重ねていく。
細い筆に色を乗せてちまちまとした動きだ。まるで本当の女のようだ。真剣に鏡の中を覗いている。何が気に入らないのかちょっと眉を寄せて布で唇の端を拭う。
「……その着物」
「はい?」
「俺が買ってやった奴?」
漆黒の蝶が舞う深い藍色。
「そーです。副長が酔っぱらって仕立てたやつです」
「似合うな」
「どうも」
「俺の見立ては間違ってなかったってことか」
「男相手に女物の着物贈る時点で十分間違ってますよ」
小さく笑って山崎は筆を置く。鏡を覗きこみ、長くのばした睫毛を指先で少し上に押し上げる。
それから櫛を手にとって、黒い半端な長さの髪を丁寧に梳き始める。
「いつまでかかんだ」
「支度? 仕事?」
「仕事」
「んー……今晩中には終わるんじゃないかなあ。今日は別に、ちょっと酒を飲むだけなのでね。日が昇るより前には帰ってきますよ」
「飲むだけか」
「飲むだけです」
梳った髪を、今度は器用に纏め上げていく。何がどうなっているのか土方にはさっぱりわからないが、山崎はくるりと束ねただけの髪をかんざしひとつできれいに纏めてしまった。土方にわかるのは、あのかんざしを引き抜けば黒い髪がぱさっと落ちるだろうということと、そのときには女のようにいい匂いがするだろうということだけだ。
山崎のしぐさひとつひとつをじっと見つめる土方に、山崎は苦笑する。
「土方さんさあ」
「何だよ」
「俺が女のカッコして男と会ったりするのが嫌なら、こんなもの贈らなきゃいいのに」
「別に嫌だとか言ってねーだろ。自惚れんな馬鹿が」
別に会うだけなんてどうってことねーだろ、と続ける言葉に本音が滲んでしまっていて土方は少し焦った。
会うだけは許すけどその先は許せない、と暴露しているも同じじゃないか。
案の定山崎は小さく笑って、口先だけで「そうですね自惚れですよねすいません」と、思ってもいないことを口にしてみせた。
あんたに貢ぐためにこうするんだよと言って平気で自分の体を使って見せる山崎のそれは仕事の上のことだから、土方は表立ってそれを否定しない。使えるものはなんでも使え好きにしろと言ったのは土方で、山崎はそれを守っているだけだからだ。
だからといってそれが面白いわけではないし、否定できるものなら否定したい。どんな風にでも使える優秀な部下と恋仲になるというのはかくも面倒なことだな、と何度後悔したか知れない。
鏡を覗きこんで髪を細かく直していく山崎の背後ににじり寄る。気づいているだろうに、山崎は振り向きもしない。
そんな着物は俺の前だけで着ときゃいいんだよ誰が仕事の衣装にしろっつったんだ。
文句を口にする代わりに、土方はあらわになった山崎の首筋に唇を寄せた。
びくりと体を強張らせた山崎が逃れようとするより先に、舌を軽く這わせ軽く吸い上げる。ちゅう、と恥ずかしい音が響いて、山崎の体が少し震えた。
唇をゆっくり離した土方に山崎が勢いよく振り向く。
「ばっ……何やってんですか!」
「マーキング」
「は、……ばっかじゃないの俺これから仕事なんですけど」
顔を赤くした山崎は土方がくちづけた部分を掌で押さえる。
「跡は付けてねーよ」
「……ばかじゃないの本当。煙草の匂いが付くでしょう」
跡は残っていないと聞いて安心したのか、山崎が呆れたような顔になって土方をじっとりと見つめた。はあ、とわざとらしく溜息をつくのが土方には気に入らない。
「いいじゃねーか、付けてけば。虫よけだ」
「よけてどうすんですか、虫つけにいくのに」
「別に今回は体使いに行くわけじゃねーだろ」
思ったよりも拗ねた響きになってしまった。土方の言葉に山崎はちょっと目を見開いて、それからもう一度溜息をつく。困ったように笑って、山崎が土方の前髪に指を伸ばした。
「そうですけどね。何のための女装なんだか」
「油断させるため、以外に使用用途があんのか?」
「……ねーですよ。そんな怖い顔せんでください」
肩を竦めた山崎が土方の前髪をすくい、あらわになった額に軽く唇を落とした。
「まったくあんたは、ときどきすごく子供ですね」
空気を揺らす笑い声は、困っているのか呆れているのか判然としない。嬉しそうな声でもあるな、と土方が思ううちに、山崎の唇は土方の唇をゆっくりと塞ぐ。いつもの山崎の唇と感触が違う気がするのは、きれに紅が塗られているからだろう。せっかくあんな神経質に塗ってたのにこんなことしてもいいのか、と、今度は土方が呆れる番だ。
ちゅ、と軽い音を立てて唇が離れた。思った通り、山崎の唇に塗られた紅は、少しよれてしまっている。
「……匂いがつくんじゃねえの」
「いいです、もう。煙草吸う女だって、珍しいわけじゃないし」
あんたのおかげで色気が増して仕事も上々かも知れません。
どういう意味なのかそんなことを言って山崎は笑うと、土方から再び離れて鏡の前にちょこんと座った。土方に背を向けて、乱れた髪を指先で撫でつける。
土方は自分の唇を指で拭い、付いた紅をじっと見つめた。
淡く控えめな色合い。自分の贈った、深い色の着物によく似合う。
「山崎」
「はいよ」
「お前、帰ったら抱かれに来い」
言えば、一度動きを止めた山崎が、ふはっと笑って首を傾げた。
「この格好で?」
「その格好で」
「はは。変態」
土方の方へ向き直り、にかっと笑うその笑顔は土方の一番好きな顔だ。
嬉しそうな楽しそうな、素のままの山崎の顔だ。
これを他の誰かに見せずに済むのなら女の格好で偽るのもまあいいな、と思う。これはやはり変態なのだろうか。思いながら、新しい煙草を取り出し銜える。目だけで促せば山崎はやはり呆れたような顔をして、それでも求められた通り、カチっと煙草に火を付けた。
ゆっくり煙を吸って吐く。別に抱きしめなくてもキスをしなくても、こんなに傍にずっといるのだから、匂いなんてきっともう移ってしまっている。
女の格好をするのも体を開くのも突き詰めれば全部自分のためなのだな、と思って、けれどそれが嬉しいのかそうでないのか土方にはわからない。
わからないまま煙を吸って吐き出す。夜に山崎を抱いたとき、この匂いがこの体により強く残ればいいな、と思いながら。