「髪濡れてっぞ」
「乾かす暇なく引きずりこんだのアンタでしょうが」
俺の濡れた髪を土方さんの指が一束ひょい、とつまみあげた。布団の中で眠る体勢を取っている土方さんの腕の中で、俺はされるがままに大人しくしている。体が熱いのは、風呂から上がったばかりなせいで、土方さんが俺をこうして腕の中に抱えているのは、ここ最近朝晩ひどく冷えるからだ。
「風邪ひくなよ」
「じゃあ髪乾かさせてください」
「不許可。ちなみに、風邪ひいても有休とかねえから」
「横暴だ」
「今更だろ」
ケケ、と意地悪そうに笑って、土方さんは俺の髪から手を離すと、今度は俺の後頭部へ掌を当て、少し自分の方へ引き寄せるようにした。濡れた髪がじんわりと頭皮の熱を奪って、目の奥が痺れたようになる。
「濡れますよ」
「構うかよ」
「構ってくださいよ。俺はいいけど、副長が風邪ひいたら洒落になりません」
「風邪ひかねえために、お前呼んだんだよ」
「はあ?」
夜は冷えるからな。眠たげに低く呟いて、土方さんは更に俺を近く抱き寄せた。
熱を持って痺れるような足先に、土方さんの冷たい足が絡む。その冷たさが今の俺には心地いい。俺の足の熱さだって、土方さんには心地いいのだろう。
しばらくそうやって、互いの体温を馴染ませ、混ぜ合わせるようにした。
普通に体を重ねているときよりも、それはずっと丁寧で、そのせいで真摯な行為であるかのように思えた。体温と同じように皮膚も馴染んで溶けあい、混ざり合わないのが、いっそ不思議に感じられる程だ。
土方さんは俺の濡れた後頭部を、不規則な間隔で緩く撫でた。頭皮を凍らせて寒気を呼ぶ湿り気は、俺の頭を抱きかかえた土方さんの着物まで濡らしていく。
ここ最近、朝晩は冷えるのだ。質の悪い風邪が流行ってもいる。
これは良くない、と、俺は土方さんの胸を押し、そっと体を離そうとした。が、それはすぐに土方さんの腕によって阻まれる。
「何だよ」
むっとしたような声で、土方さんは言った。
眠くて機嫌が悪くなっているのか、いつもより声に籠った棘が鋭い。
「風邪、ひきます」
「そのときは看病してやるよ」
「俺じゃなくて、副長が」
「そのときはお前が看病すればいいだろ」
「もう。今そんな、体調崩したら困るでしょう」
ちょっときつめに言って、ぐい、と土方さんの体を押す。今度はあっさり腕の中から逃げ出せたので、それはそれで、拍子抜けをした。何たる我儘か。
「髪、乾かしたら戻ってきますから」
「……いいよ、もう」
「すぐ戻ってきます」
「戻ってこなくていい」
そのまま部屋で寝ちまえよ。と言ったその声には、やはり、いつもより鋭い棘があった。冷たいその言葉だけ俺に突き刺して、土方さんは背を向けてしまう。わざとらしい大きな動きだったので、衣擦れの音がやけに高く上がった。その音にも、拒絶されているように感じて、勝手に抜けだしたくせに俺は途方にくれる。
布団の外は、寒かった。熱を持っていた体が急速に冷えて行く。濡れた髪が頭皮の温度を奪い、頭が痛い。本当に風邪をひきそうだ。
その髪を乾かしに行くために、腕から逃げたはずなのに。俺は布団の外に座り込んだまま、少しも動けない。ちっとも振りかえらない背中を、ただ悲しい気持ちで見ている。
我儘が過ぎるな、と、自分で自分に少し呆れた。
「副長」
声は返らない。
「副長」
身じろぎもしない。
「……土方さん」
少し、布団が擦れあって音を立てた。
やけに長い時間を立てて、黒い背中が動く。そろりとした動きで寝がえりをうち、こちらを向いた土方さんは、俺の顔をしばらくの間じっと見て、それから、馬鹿にしたように小さく笑った。
「泣きそうだぞ、お前」
「だって」
「髪、乾かすんじゃねえの」
「……乾かしたら、戻ってきますからね」
「戻ってこなくていい」
先ほどと同じ言葉を、先ほどよりは柔らかく、土方さんは繰り返した。
顔には少し苦笑が滲んでいる。
「でも」
「でも、じゃねえよ。いい。お前が戻ってくる頃には、俺は寝てるだろうから」
「…………」
「自分の部屋で、ゆっくり寝ろ。どうせ明日から、お前たち居残り組も働き詰めだ。風邪ひいたって、休ませてやれねえからな」
「……土方さん」
バァカ、と土方さんは苦笑を深くして、俺へ腕を伸ばす。その腕を取るために少し近づけば、手を軽く握られた。熱くもない冷たくもない、心地いい体温。
「どうする?」
「…………」
「そんなとこにいるのが、一番寒いだろ」
ぎゅ、と俺の手を握る力が強くなって、誘うような緩さで軽く引っ張られる。
体はすっかり冷えてしまって、足の先がひどく冷たい。
俺は土方さんに誘われるまま、先ほど自分が逃げ出した布団の中へ、再びするりと潜り込んだ。
あたたかい。冷えた先がじんわりと熱を持って行く。土方さんの足が俺の足へと絡む。先ほどとは逆の、体温供給。
「山崎」
「はい」
「明日、俺が起きる前に、お前起きて、ここから出てけ」
「……え?」
土方さんの手が再び俺の後頭部へ周り、軽く抱き寄せるようにする。今度は逆らわずその体へすりよれば、鼻孔を慣れた煙草の匂いが擽った。
「俺が起きる前に、ここからいなくなっとけよ」
「どうして」
「離れがたくなるから」
言って、その言葉が自分でおかしかったのか、土方さんは低く笑った。笑いの振動が触れている場所を通じて俺の体にまで流れ込んで響く。
「朝、お前が寝こけてんの見たら、俺は、死にたくねえなって思っちまうかも知れねえからな。もっと傍にいたいとか、死ぬなら看取って欲しいとか、」
守りたいとか。
低く、小さく、囁くように呟かれた最後の言葉は、土方さんの意図と反して俺に鮮明に届いてしまった。
触れ合っている場所から、声が直接響くのだ。
溶け合えないのが不思議なくらいなのだから、仕方がない。
「……そんなの、俺だって、離れがたいです」
「お前はいいんだよ。俺を信じて、ちゃんと待ってれば」
俺の体をきつく抱きしめるように土方さんの腕が回る。暖かい体温に熱を分けられて、髪が濡れていたこととか、足が冷えていたこととか、そういうことが全部、気にならなくなっていく。
とくとくと、心臓の音が聞こえている。
力強い音だ。土方さんの音だろう。
「あー……でもなんか、目が覚めそう、お前が逃げたら。山崎、お前、ちゃんと気配殺して、絶対俺を起こすなよ」
横暴なことを平気で言って、土方さんはもう一度俺を抱えなおし、それから体の力を抜いたようだった。土方さんの腕の重みを腰のあたりに感じながら、俺は土方さんの体にぴたりとひっつく。
「……あったかい」
「だろ? 風邪なんか、ひきようがねえだろう」
笑う声が、得意げだ。少し眠たそうに語尾が不明瞭でもある。
俺はもうそれきり口を噤んで、土方さんも何も言わなかった。ただ、寝息は長い間聞こえなかった。俺も眠れなかった。身じろぎひとつできなかった。土方さんの長い長い間隔をあけて、時折思い出したように俺の頭を撫でた。
この人は明日死地に旅立つ。
次に会うときに、力強い鼓動とあたたかなぬくもりがまだ確かにあるように、俺は信じてもいない神様に、ただひたすら、祈ることしかできない。