身体を打つ雨は、すでに冷たくはなかった。冷え切った身体の上を雨はただひたすらに流れ、たとえば身体を打つ、その感覚や、耳に届いているはずの雨音さえも分からない。
 瞬きをした拍子に睫に付いた雫がぽたりと落ちた。濁っていたような意識が一瞬覚醒し、首筋に張り付いた髪を煩わしく感じる。
 これと同じ感覚を、知っている。どこかで、どこかで――――――……。


 そこで意識は途切れた。




    ***




「痛っ……!!」
 思わず上げた悲鳴には見向きもせずに、ぱたりと救急箱の閉じる音。燻った紫煙の向こうに見える人がひどく不機嫌そうにしていて、山崎は思わず首を竦めた。
「………あの、」
「………」
「………副長」
「…………」
「…………土方さん」
「…………」
「…………………怒ってますか?」
 恐る恐る発した問いに、ふっと紫煙が揺らぐ。まだ火を付けたばかりの煙草を携帯の灰皿に押しつけて、土方は紫煙の代わりに溜息を吐いた。
「山崎」
「……すみません」
 深々と頭を下げた山崎に土方はもう一度深く溜息を吐き、意味もなく救急箱に触れる。煙草と、そしてかすかに、医療品の匂い。慣れているはずのそれが、何故だかとても不快だった。窓を開けようかと立ち上がり掛け、耳に届く雨の音に、やめた。湿気の所為だろう、沈殿するようなゆるやかな空気。些か息苦しく感じるそれに、煙草を消すのではなかったと後悔をする。
「……本当に、申し訳ありませんでした………」
 頭を下げたままの山崎が、硬い声で低く言う。なかなか上げない顔を訝しんで、土方は手を伸ばした。顎を掴み顔を上向かせると、案の定山崎は、きつくきつく唇を噛みしめている。
 まだ治らないか、この癖は。
 そっと指で唇をなぞってやると、気付いたかのようにはっとして口を開いた。歯の跡が残った唇に、眉を顰める。もう一度ゆっくりと唇をなぞり、離す。
「………仕留めたんだろう」
「……はい」
「ならいい」
「でも、」
「でも?」
「……………いえ」
 否定を口にしながら目を逸らすそれは自分自身を責めているのだろう。頑なに。いつになく気にするその様子が、いっそ不思議ですらある。
「怒らねぇよ」
「………」
「気付かれたら斬れ。俺はそう教えた。お前はそれを守った。任務中、気付かれちゃいけねぇなんて、俺も、近藤さんも、一度だって言ってねェだろ」
「……はい」
「傷は、痛むか」
「……少し。でも、平気です」
「強がっても意味ねぇぞ」
「副長が……土方さんが、あの、その、治療をしてくれたので……大丈夫です。もう治っちゃいました」
 そうか、と土方は低く言った。はい、と小さく山崎は笑う。仕留めるときに斬り返されて生まれたのであろう傷は、実際そう深くない。長く痛むこともないだろう。しかし。
――――――だったら目ェみてちゃんと言え」
 目を逸らしたまま笑う山崎が、土方にはひたすら不愉快だ。
 低く鋭く声を落とされた山崎は、びくりと大きく肩を揺らした。
「山崎ィ」
「はい」
「何かやましいことでもあんのかコラ」
「なっ!ないですよっ!」
 いつもの調子の言葉にいつもの調子で返してしまって、かち合った視線に山崎は、あ、と息を飲む。一度、見れば逸らせない。その視線だけで人を殺せるのではないのかと時折思う、冷たい瞳、その奥に、燻る紫煙のような何かが、見える。
 その何かに捕らえられて、一度見てしまえば弱さ故に逸らすことは出来ないのだということを、山崎は知っていた。


 雨の音が聞こえる。響く静かに広がる音。


「傷は……もう本当、大したことないですし、俺の力量不足の所為ですから……あんまり痛いとか、思わないし、」
 しどろもどろになりながら、今こそ視線を逸らして言うところではないのだろうかと思う。それでも逸らせない。逸らせないから、射抜く視線を受け止めたまま、考え考えばらばらな言葉を紡ぐ。
「……ただ、雨が……」
「雨?」
「雨、が……降るので、思い出して……」
 促すように和らぐ土方の視線に、気が緩みそうになる。一度捕らえたのなら、そのままきつく絡め取ったままでいて欲しいのに。
 震えそうになる声を叱咤する。
 泣きそうになるのに、気付かない振りで。




    ***




 傷が痛んで血が流れて、倒れ込みそうになる身体を雨が打つ。
 雨に打たれ続けた身体は冷たさも痛みも音も何も拾わなかった。自分がここにあるのかということすらわからずに、思い出したようにぱちりと動く瞼で、水滴が落ち、それがひどく不思議な感じがした。
 死ぬのか、とも思わなかった。思考はすでにそこにはなかった。呼吸はしていたし、脈も打っていた。けれども、思考はすでに思い通りにはならずに、眠っているのか起きているのか分からない状態に似ていた。
 ぼんやりとしていた。雨の音も聞こえなかった。
 だから、突然起こった変化に、少し驚いた。


――――――生きてるか?


 低く、訊ねられた。少しの間を置いて耳に届いたそれは、ひどい雨の音を連れてきた。濡れて張り付いた服、髪。寒いとは相変わらず感じなかった。それでも、雨が途絶えたのは分かった。
 見上げれば、黒髪の人が傘をさして、こちらを見下ろしていた。
 その人の傘は、その人を雨から守ってはおらず、どうやら自分の身体を守ってくれているようだった。


――――――生きてるか?


 頷いた。生きている。死んではいない。呼吸もしているし、脈も打っている。それを冷静に把握して、頷いた。生きています、まだ、死んではいません。


――――――死にたいか?


 生きているか。その問いとまったく抑揚を変えずに訊ねられ、瞬きをした。雨の音に混じって聞こえた問いは、ひどく不思議なものだった。死にたいのか。問われ、首を傾げることもままならない身体で、静かに考える。雨から遮られた身体は、濡れた衣服の所為で体温を奪われ続けて、それが少し寒いと感じるようだった。零れる呼吸は、湿気に負けまいと少し荒いようだった。目を閉じたらもう開けられないのではないのかと不安で、目を閉じては考えられなかった。
 目を開けられないのが不安なのだと気付いて、答えを見つけたとやっと傘の持ち主を見れば、その人は、聞いたそのときから少しも変わらずそこに立っていた。急かすでなく、苛立つでなく。


「しにたくない」


 生きたいのかと聞かれたら、どう答えたかわからない。ただ、死にたくはなかった。だからそう答えた。
 ふと、その人は笑ったようだった。微かに口角をあげて、優しげに笑ったようだったので、驚いて、もう一度瞬きをした。


 この人を知っている。そう思って、そこで意識を手放し、起きたときには温かな、暖かな場所だった。




    ***




 どうあってでもこの人の役に立つ。そう決めた。勝手に決めて心に刻んだ。その人が、自分の傷を見て、不機嫌そうな顔をする。それが山崎をどうしようもなくさせた。不手際で得た傷でそんな顔をさせた。乱暴に閉められた救急箱のぱたんと響いた音。それに加わる雨の音。


「だから俺の目が見れねェって?」
「……はい」
――――――バカかお前」
「……え」
「お前は! 仕事して、言いつけもちゃんと守って! まあ人に拾われるって不手際はあったが、こうして帰って来たんだろうが!」
「は、はい」
「だったら…………いいじゃねェか、それで」
 ふっと、溜息のように土方が零した言葉に、山崎がいつかのようにぱちりと瞬きをする。今度は土方が山崎から視線を外して、誰に言うのか、繰り返した。いいじゃねェか、それで。
「……お前が傷作って帰ってきて、俺の機嫌が悪くなんのは俺の勝手だ」


 死にたいかと問うたら、少年は、死にたくないと答えた。生きる意味はなくても、死ぬ意味がないなら死ななくていい。そう考えていたから、助けてやろうと思った。
 暖かい部屋で目を覚まし、ぼろぼろと泣いた少年を見て、らしくなく、胸が痛んだ。
 こいつが笑えばいいと、そう思った。
 それを、教える気はない。教える意味もない。


「雨が上がって傷が治ったら、今度失敗したと思う分まで仕事しやがれ。それで、チャラにしてやる」
 土方の言葉に、山崎は一瞬呆け、それから大きく頷いた。笑って。
 任せてください! 勢い込んだ山崎に土方は軽くげんこつをお見舞いした。調子に乗って、こちらの肝を冷やすな。そんな気持ちを、知らずに込めて。

      (05.02.25)