世界があなたの敵になったら、俺だけ味方でいてあげる。


 俺の好きな人が世界の英雄になったのは、ほんの些細な事件を解決したことが切欠だった。
 世界と言っても狭い江戸の狭い一角、歓楽街のことである。事件というのは、この界隈で働く女性(つまりは、そういう女性)を狙った暴行事件のことであり、解決と言ったって、警察組織として当たり前に仕事をした結果に過ぎない。
 なのに、まるで世界レベルの英雄になったような持て囃されっぷりなのだ。なまじ顔が良いのできゃあきゃあ言われている。王子様もかくや、というような盛り上がりっぷりである。
 当人はと言えば、騒がれるのは慣れているのか顔色ひとつ変えず、むしろ少し迷惑そうに、注がれた酒を舐めている。
 あんまり酒が得意でないのだ。強くもない。こういう席も好きではないと聞いている。もともと品がない育ちなので、酔っても碌なことにはならない。さっさと解放しろ!と俺は周囲を取り巻く女たちに念を送ったが、もちろん利くわけがなかった。
 適当な言い訳を頭の中で練り上げる。急ぎの仕事はあったろうか、明日早い仕事はなかったろうか、今すぐここを出て帰らなければならない言い訳は、何か。
 こちらの苦悩も知らず、きゃあきゃあと甲高い声を上げて女たちはべたべたと彼に触れ、しなだれかかり、酒を注いでいる。祝宴だかお礼だか公然セクハラだかなんだか知らないが、不愉快なことこの上ない。
 一人の女が調子に乗って、豊満な胸を彼の腕に押し付けたところで完全に我慢の限界が来た。
「副長!」
 思った以上に通った声に、騒いでいた女の声がやむ。明らかに機嫌の悪そうな目つきで、ああ?と、土方さんが、俺を見た。
「お急ぎの仕事が、残っているのではないですか?そろそろ戻らねば、局長の叱責を買いますよ」
 もちろん、嘘だ。あからさまに嘘だ。
 急ぎの仕事なんて何度考えても出てこなかったし、局長は行きつけのスナックで今頃酔いつぶれているだろう。そのどちらも、土方さんには、ばれているはずで、文句を言われるかと思ったが意外にもあっさり彼は俺の言に乗っかった。
「ああ、そうだな」
 ええー、と残念そうな女たちの声に構わずさっさと立ち上がり、しっかりとした足取りで俺の元へ歩いてくる。迷惑そうに見えたのは、それでは事実だったのだ。でれでれしたところを見せては格好悪いからという見栄の作り出したポーカーフェイスではないだろうかと、六割ほど疑っていたのだけれど。
「帰るぞ」
「は、はいよ!」
 十四郎様、お待ちになって、という甘い声を無視して、すたすたと歩き出した土方さんに続く形で、俺は慌てて外へ出た。宴会場の外は涼しく、室内の熱気が今更ながらによくわかる。
 大きな歩幅でさっさと歩いて、宴会場の喧騒も途絶え、店の明かりも遠のき、どんどん歩いて人気が少ない夜らしい通りに出たあたりで、黙々と歩いていた土方さんが小さな笑い声を上げた。
 不思議に思って隣に並び、その顔を見上げる。
「嫉妬か」
「は?」
「さっきの」
「さっきの?」
「すっげえ怖い顔してこっち見てただろ」
 笑いをこらえるのが大変だった、と言って、土方さんは低く笑った。
 それではあの不機嫌そうな顔は、笑いを、正確にはにやける口元を隠そうとしていたのか。
「……そんなに怖い顔してました?」
「してました」
「……じゃあ、さっさと引き上げてくれたらよかったのに」
「いや、お前がどこまでもつかな、と思って」
 意外に長かったな、とか何とか。
 言いながら土方さんは、ひどく自然な動きで俺の手を握った。
 一瞬うろたえ、あたりを見回す。そんな俺に気づいて、誰もいねえよ、とさらりという土方さんの、楽しそうな顔といったら。
「あんたのせいですよう」
「何が」
「俺がこんな、女みたいな性格になったのは」
「人のせいにすんなよ」
「女の格好して、女みてえなことされてたら、そらこんな風になりますよ」
「そこらの女より可愛がってやってんだろうが」
「そこらの女の顔殴るんですか、あんたは」
「愛だろ、愛」
「意味が分からない」
「もしくはカモフラージュ」
 人前じゃこんなことできねえだろ。言いながら土方さんは、握った手を繋ぎなおす。指と指を絡めて繋ぐので、距離が少し近くなった。少し酒の匂いがする。
「……酔ってんですか」
「酔ってねえよ」
「酔ってますよ。明日の朝には、どうせ覚えてないんでしょ」
「覚えてるって」
「忘れてください。……これから俺が、言うことも」
 絡んだ指に、ぎゅっと力を入れて小さな声で言った俺の言葉に、土方さんは少し怪訝な顔をした。俺はそれに笑顔を向けて、それから子供のようにありもしない石を蹴る振りをする。
「あーあ!土方さんがすごい非道な人で誰からも嫌われる人であればよかったのになあ!もしくはすっごい無能。引くくらい無能。あんな暴行事件のひとつも解決できなくって、みんなから失望されてればよかったのに!」
 そしたら。
「……そしたら、俺だけ、味方でいてあげるのになあ」
 非道なことをして、世界中に嫌われれば。何一つできなくて、世界中から失望されれば。
 俺だけがいいところを探して、俺だけがいいところを見つけて、俺だけが知っているいいところを誰にも内緒にして、俺だけが、味方でいてあげるのに。
 俺の言葉を、女に優しく顔もいいので多くの女に好かれていて仕事もそれなりにできるので期待を寄せられている土方さんは怒らず黙って聞いていて、それから、低い声で小さく笑った。
「……なんですか」
「いや、……可愛いな、と思って」
「……酔っ払い」
「酔ってねえって」
「酔っててください、恥ずかしいから」
「世界が俺の味方でも、別にいいじゃねえか」
 けけ、と笑って、土方さんは繋がっている俺の手を口元へ寄せる。
「あんだけ好かれてる俺が一番好きなのがお前なら、いいだろ、それで」
 言い終わると同時に、引き寄せた指の関節へちゅっと音を立ててくちづけられた。
「…………酔っ払い。女たらし」
「たらしたいお前は女じゃねえけど?」
「離してください歩きづらい」
「可愛くねえの」
 酔っ払いは至極楽しそうに声を上げ、俺の手を絡め取ったまま上機嫌で歩く。
 俺は手を引かれるまま歩き、俯き、思案した。今なら相手は酔っ払いだし、抱きついたって叱られないだろうか、とか。

      (10.09.16)