軽い足音が遠くで聞こえる。土方は夢と現の境目で、ぼんやりとその音に耳をすましている。
ひどく眠い。ぺたぺたと響いていた足音が止まって、少しの間を置いて、すら、と襖が開かれる音がした。自分の部屋への来訪者だということは分かったが、どうにも起きる気になれない。
起きなくても大丈夫な相手だろうと信じ込んでいるせいもある。
甘い香りが空気に滲んで、しゃらん、と金属が軽い音を立てた。近づく衣擦れの音。傍らに膝をついた気配。甘い香りが濃くなって、あ、と思う間に唇にやわらかな温もりが触れた。
「……寝た振りですか。悪趣味ですね」
「夜這いですか、悪趣味ですね」
そっと唇を離した山崎は、吐息がかかる程近くで不機嫌そうに囁いた。まだ重たい瞼をどうにか開いた土方は、そんな山崎の様子をじっと見つめる。女の装いをしているということはわかった。だが、まだ目が夜に慣れていないせいで、うまく表情が読みとれない。
「……酒くせ。酔ってんのか?」
「飲んでますが、酔ってません。これでも仕事帰りですよ」
「どの仕事」
「必殺仕事人」
「……あ、そ」
甘たるい、おそらくは女物の香水の香りと、酒の匂いに混ざって、確かにかすかな血の匂いがする。が、その匂いは土方にも山崎にも普段から馴染み過ぎていて、取り立てて違和感を覚えない。
今はただ、土方の頬を滑る指のことだけ気にかかる。
「……何してんだよ」
「今日殺した男が、あなたによく似ていましたよ。黒髪の、目つきの悪い、いい男でした」
「絆されたか」
「絆されなかったから、こうして帰って来たんでしょう。ただ……」
「ただ?」
頬を撫でる山崎の指を、土方は掴んで自分の指で絡め取った。目が少しずつ夜の闇に慣れていく。山崎は少し困ったような、あるいは泣きそうな顔をしていた。髪飾りが鈍く光っていて、しゃらん、と軽い音を立てる。
「終わった後、まるであなたが死んでるような気分になって、怖くなりました、よ」
「で、俺が生きてるか確かめに来たってのか。お前、馬鹿だろ」
「馬鹿ですよ。知ってるでしょう」
俺はあんたが大好きですからね。さらりと告白めいたことを言って、山崎が小さく笑った。それに合わせてしゃらしゃらと髪飾りが音を立てる。見覚えのあるそれは、土方が贈ったものだった。これ使ってしっかり仕事しろよ、とか何とか、理由をつけて。
使っているのか、と思えば嬉しくもある。が、それを使うということは、山崎が自分の身を危険に晒している、ということと、同義だ。
「おい」
「はい?」
「こっち来い」
土方は山崎の手をぐい、と引っ張って、布団の上に引き倒した。うわ、と色気のない声をあげて倒れる山崎を組み敷くような形で、土方は手早く山崎の帯を解く。
「ちょ、わっ! 何してんですか」
「何してんですかじゃねえよ、夜這いに来といて」
「だからって、……うわー……」
「何だよ」
「手慣れてて引きます、ちょっと」
「好きな癖に。おらっ」
「わぁ!」
しゅる、と帯を勢いよく引き抜いてやれば、再び山崎が色気のない声を上げた。遠くに帯を放り投げて、土方は躊躇わず山崎の着物を剥ぐ。下着まで女ものであればどうしようかと思案したが、幸か不幸か、着物を剥いでしまえば山崎は土方のよく知る山崎だった。顔に薄く施された化粧と、甘い香りだけが少しの違和感を残す。
「ちょ、っと! 土方さん!」
「あーあーうるせえなあ。ひらひらして邪魔なんだよ。おら」
「……え?」
着物を剥がれて下着姿になった山崎は、そのまま隣にどさりと横たわった土方に困惑した声を上げた。うるさいので頭を抱えて抱き寄せてやれば、戸惑いながらも擦り寄ってくる。条件反射だろうか。少し気分がいい。
「俺ァ眠いんだ。尋常じゃねえほど眠い。寝たい。寝かせろ」
「……ちょっと、あの、意味がよくわからないんですが」
「言っただろうが、ひらひらしてて邪魔なんだよ。お前も寝づらいだろうが」
「いや、俺このまま寝るつもりじゃなかったし……ちょっと、本気で寝るんですか?」
「眠いっつってんだろうが。最初に俺の安眠妨害したのはおめえだぞ」
「寝た振りだったくせに」
「寝てたっつーの」
「化粧とか落としたいんですが」
「女かおめえ」
「みたいなもんですよ、今は」
「いいじゃねえか。ちょっとくらい、構やしねえだろ」
「布団汚しますよ」
「いいよ、別に。寝かせろよ」
「俺放って寝れば」
「怖いんだろ」
「…………」
ぎゅう、と抱き寄せてやれば、甘い匂いが近くなる。少しの間山崎は息を呑んだようにじっとしていて、それからそっと、土方の着物を弱い力で握った。土方は山崎の頭を撫でてやり、指に引っかかった髪飾りをそっと引き抜く。
「俺を殺したみてえで、俺が死んだみてえで、怖かったんだろ。馬鹿。他の男と俺をなァ、間違ってんじゃねえぞ」
「……間違ったわけじゃありません」
「俺がお前ごときに殺されるわけがねえだろうが。ちゃんと生きてっから、泣くな」
「泣いてません」
言葉の合間に、ずず、と鼻を啜るような音が聞こえて、思わず土方は笑った。拗ねたように山崎が軽く土方を叩くので、それすらおかしい。
人を殺すということは、いつか自分が殺されるという覚悟をすることだ。
土方も山崎も、それはよくわかっている。
けれど、自分が死ぬ覚悟はできても、自分の愛おしい人が死んでしまう覚悟など、どうしてできようか。
「おら、もう寝るぞ」
「暑くないですか」
「じゃあクーラー付けろよ」
「クーラーの風嫌いなくせに」
「暑くて寝れねえよりいいだろうが。その辺にリモコンあるだろ」
「……俺のこと離せば暑くないんじゃないんですか?」
「一緒に寝てやるって言ってんだよ。ぐだぐだ言ってねえで、大人しく寝ろ」
「……やっぱり酔ってるんでしょう。優しすぎる」
「酔ってんのはお前だろ。今更遠慮してんじゃねえよ、気持ち悪ィ」
子供をあやすように背中を叩いてやれば、山崎は観念したのか大人しくなった。甘い香りと酒の匂いと血の匂い。どれも土方の身に馴染んだ、山崎の匂いだ。
酔ってはいないが、眠気のせいで少し意識がぼんやりとしている。半分夢を見ているような気持ちでもある。近くに山崎の呼吸と心音を感じながら、土方は山崎の頭を撫でた。きっと、優しさが滲んでしまっているだろう。普段は押し隠しているそれだから、山崎は困惑しているかも知れない。
いつ手放さなければならないのかわからないので、目立って優しくしないようにしている。
けれど今は、優しくしたって仕方がない。うつらうつらとする中でうまく考えられないのだ。優しくしたいのも甘やかしたいのも、本心なので仕方がない。
すり、と山崎が土方に近づいて、土方さん、と小さく名前を呼んだ。ああ、とか、うん、とか、答えたような気がするが上手く声になったかどうかは分からない。
お前にだったら殺されてもいいよ、と、本当に本心が滲んでしまいそうで少し焦ったが、どうせ明瞭な言葉にはならないだろう。夢の中でも山崎に会えたら、言ってやってもいいような気がする。