風呂あがったらまっすぐ来いと言って命令してから山崎が部屋に来るまできっかり一時間はかかったのではないかと思う。女でもあるまいに風呂が長い。風呂ん中で何してんだと聞けば、
「普通に体洗って髪洗って湯船つかって出てますよ」
 しれっとした答えが返ってきた。その体洗って髪洗って湯船につかって出るまでにどんだけ時間をかけてるんだ、と言いたいが、返ってくる答えがあまりにも面倒くさそうなのでやめる。そう言えば前に風呂に入るのが遅くなった際たまたま山崎とかち合ったことがあるが、その時には髪を洗うのにも三種類四種類もの何かを使って、さらに二種類のぬか袋だのなんだのを使って体を洗っていた。いっそ得体が知れない。
 そして今は半端に長い髪をタオルでしっかりとくるんで、小さな鏡を覗き込みながら顔に何やらぺたぺたと塗っている。手元に置かれたビンは、三本。得体が知れない。
「何やってんだ、それ」
「化粧水と乳液と保湿クリームです」
「……は?」
「冬だし乾燥するし、やるとやらないとじゃ全然違うんですよ」
「……何が」
「化粧のノリとか」
 お前は女かっ! と怒鳴って思わず背中を蹴った、ら、山崎はぎゃあっと潰れたような声を出して倒れ込んだ。痛いだのひどいだの暴力上司だのわめいているが、ビンの蓋を閉めるところまで見届けてから蹴ってやったことに、むしろ感謝をして欲しい。
「気持ち悪ィんだよ、斬るぞ」
「風呂あがったら真っ直ぐ来いっつったのアンタじゃないですか!」
「余計な物まで持ってくんじゃねーよ」
「何にもしなくても男前なアンタにはわからないでしょうがね、こういう日々の努力が将来的な差を生むんですよ」
「あァ? 俺が将来的にお前に劣るって言うのか」
「言ってませんって! 必要ないならないでいいじゃないスか。俺なんて、女装するときに肌ぼろぼろだったり化粧浮いたりしたら、そんだけで仕事の成果に差が出ますからね。仕事の一環ですよ」
「気持ち悪」
「その気持ち悪ィことさせてんのはアンタだろーが!」
 キレのいい言葉とともにひゅんっと手刀が飛んできたので、手首を掴んで止めてやる。ぱしん、といい音がして山崎が反射的に肩を竦めてぎゅっと目を閉じた。びびるくらいなら最初からしなければいいのに。
(……かわいいやつめ)
 手首を握ったままじっと様子を見ていれば、山崎がおそるおそる目を開けて、おそるおそる顔をあげる。それからきょとんとした顔で、あれえ? と素っ頓狂な声を出した。
「……殴んねえんですか?」
「殴られたいのか?」
「いえ……、あの、……」
「何」
「手」
「て?」
「……手を、離していただけますか」
「終わったのか」
「え?」
「化粧水だのなんだの。塗り終わったのか」
「はぁ、まあ」
「じゃあ、いいだろ」
 言って、握ったままの手首をぐいと勢いよく引けば、わあ! とやはり色気のない声をあげた山崎の体が腕の中に転がり込んだ。髪を束ねていたタオルをはずして放り投げる。まだ濡れたままの髪から、洗いたての少し甘い匂いが広がった。
「……ひ、じかたさん?」
「あ?」
「これは……何でしょう?」
「さあ?」
 うろたえる山崎の濡れた髪を指で寄せ、あらわになった耳元に唇をあてる。ひゃ、と高い声が山崎の口から零れ出て、慌てたように山崎が自分の手で口を塞いだ。
「……何やってんだ」
「何って、それは俺のセリフです」
「恥ずかしがってんじゃねえよ、今更」
「……あの、せめて、髪を乾かしたいんですけど」
「そのうち乾くだろ」
「自然乾燥は髪が傷むんですってば!」
「うっるせえなあ! 耳元で喚くな!」
 腕の中にいた体を突き飛ばすようにすれば、山崎は意外にあっさり転がった。それからじっとりとした目で起き上がり、拗ねたように唇を尖らせる。そんなに表情豊かで、監察として大丈夫かと心配になる程はっきりしている。
(……くそ、かわいいな)
 思わず口元が緩んでしまう。拗ねた顔の山崎の襟首を掴んで再び引き寄せれば、機嫌の悪い犬のようにじたばたと抵抗してきやがった。
「おら、暴れんな! 髪乾かしてやっから大人しくしてろ!」
 引き寄せて、足の間に座らせる。頭をがしっと掴んで前を向かせ、少し離れた場所にあったドライヤーを何とか引き寄せる間、山崎は驚いたように、え? とか、本当に? とか間抜けな声を出している。
 そういえばこのドライヤーも山崎がいつか置いていったものだったな、と思いながら、カチッとスイッチを入れた。
 ごおおおおお、と吐きだされる温かい風を、山崎の濡れた髪に向ける。髪は風に吹かれてぶわりと舞い上がり、山崎が少し首を竦めた。
 温風を右に左にあてながら、山崎の髪を掬ってはこぼし、こぼしては梳く。冷たい髪はだんだんと渇き、なめらかな感触を指へと返す。
 なんとか全体を乾かしてドライヤーのスイッチを切る頃には、山崎はすっかり大人しくなっていて、おずおずと後ろを振り返り「ありがとうございます」と小さな声で頭を下げた。
 その頬が、少し赤い。
「あ」
「え?」
「前髪、まだ濡れてんな」
 後ろからでは気付かなかった前髪が、まだ少し湿っている。指ですくって確かめれば、山崎が戸惑ったように瞬きの回数を多くする。
「どうする? 乾かすか?」
「いや……あの、大丈夫、です」
「あっそ。めんどくせえのはこれで終わりか」
「はい」
「じゃ、布団行くぞ」
 手を掴んで立ち上がれば、少しよろけた山崎がそれでも大人しく後に付いてくる。襖を一枚隔てて隣の部屋に敷いた布団の上に山崎を座らせて、一度頭を撫でてやり、それから枕元の煙草に手を伸ばした。
「吸うぞ」
「え、髪洗ったのに!」
「んだよ」
「匂いが付くじゃないですか」
「どっちにしたって、付くよ。俺にもう付いてんだから」
「それはそうですけど……」
「うるせえな。吸うぞ」
「はい……」
 煙草を口に銜え、火をつける。山崎は手持無沙汰そうに暫く明滅する煙草の火を見つめていて、それからきょろりと部屋の中を見渡し、今度は布団をじっと見つめ、それからきょろりと先ほどまでいた部屋を振り返し、そして再び煙草の火へ視線を戻した。
「何やってんだよ」
「いや、あの、襖閉めていいですか」
「ああ」
「じゃ、じゃあ、失礼します」
 おどおどと立ちあがり、山崎は隣の部屋の電気をしっかり消してから、二つの部屋を隔てる襖を音をさせずにぴたりと閉めた。行燈をかたどった頼りない照明だけが、布団一組の敷かれた部屋をぼんやり映し出している。
「何突っ立ってんだよ。うぜえから座れ」
「あの、土方さん」
「んだよ」
「何で、俺を呼んだんですか?」
「あァ?」
 何を言い出すんだこいつは、という顔で見つめれば、山崎は困ったように視線を伏せる。それから躊躇いがちに再び布団の上に座り、何が気に入らないのか、唇を尖らせてじっとりとした視線を寄越した。
「だってなんか、変」
「変って何がだよ。お前を呼ぶのに理由がいるのか」
「そういうとこっ……がっ……!」
 吸い終わった煙草を灰皿に押し付け、駄々をこねる山崎の額を思いっきり押してやれば、舌を噛む勢いで言葉をもつれさせた山崎はそのまま布団に倒れ込んだ。
 上に乗りかかるようにして顔を覗きこみ、赤くなっているであろう額に唇を落とす。
「文句あんのか」
「だって、なんか……」
「なんか?」
「…………優しすぎる」
 困ったように眉を下げた山崎は泣きそうな声でそう言って、両手で顔を隠してしまった。
 泣いているのではない。困っているのではない。覗いている耳が赤い。触れた肌が熱い。
(かっわいいなぁ)
 緩む口元を押さえられない。照れた顔を隠している両の手を掴んではがし、じっと目を覗きこんでやれば、うう……、と意味をなさない呻き声が山崎の唇から零れた。
「お前に優しくすんのに、理由がいるのか」
 答えを待たずに唇を塞ぐ。うぐ、と色気のない声を出して山崎は黙り、ぎゅっと目を閉じた。そろりと伸ばされた山崎の腕が、背中に回るのを感じる。
 湯上りの甘い匂いがする。懸命に唇を舌を動かして、山崎はもう文句も言わない。
 唇を少し離してその頬に触れてやれば、やはり熱くて山崎は困ったような顔をしている。
 可愛いなぁ、とうっかり声にしてこぼれた。山崎は驚いたように息を呑み、それがおかしくて思わず笑い声が出た。

      (10.11.07)