閉店間際の店に飛び込んで、なんとかケーキは手に入れた。
昼から降り続いていた雪は、夜の寒さに冷やされて足跡を残す程積もっている。
さくり、と雪を踏むたびに足の先が冷たい。今日はマフラーを忘れてきてしまった。土方はコートの襟に顔を埋め、白い息を吐く。
本当はもっとはやく帰るつもりだったのだ。せめて夕飯の時間には屯所に戻って、山崎に声をかけ、部屋に呼び出すつもりだった。今日まで土方が忙しく、明日から山崎が忙しい。すれ違いだ。けれど日付が変わるときにはどうにか会えそうなことを、感謝するべきだろうか。忙しい時期は何かと忙しい。そして職業柄、私用で忙しさを曲げることができない。
それにしたって。土方の吐いた溜息は白く濁って夜の闇に溶ける。
生まれた日くらいは、祝ってやりたいと思っていた。山崎はそういうものに頓着しない性質で、下手すると人に指摘されるまで忘れている。いい大人なのだからそれで当然なのかも知れないが、それでも祝ってやりたくて、自分だけは、いつだって、きちんと覚えていたくて、だからせめて日付が変わる夜くらいは、一緒にいたくて。けれどこれは土方の自己満足に過ぎないだろうか?
もっとはやく帰るつもりだったのに。会議は思いのほか長引いて、断る間もなく会食へ連れ出された。遅くなる、と山崎へ連絡しようと思ってやめたのは、何の約束もしていないからだ。遅くなる、という連絡は、待っていろ、と同義のようで、少し憚られた。
さく、さく、と雪を踏む。茶色く汚れた足跡が点々と土方の後ろに付いて行く。きっとここに山崎がいたら、馬鹿みたいにはしゃいで土方の周りをくるくると回るだろう。笑って、軽い足取りで、すごいですねえ! と感動して見せて、そしてこける。決まっている。しかもきっと顔からいく。運動神経はいいくせに、どこか抜けているのだ。いろんなところのねじがはずれているのかも知れない。
土方は小さく笑って、少し歩調を早めた。いきなり祝ってやったらどんな顔をするだろう。驚いた表情を想像するだけで、笑いがこみあげ、足取りが弾む。
部屋の明かりは消えていた。
山崎は宵っ張りだから、普段日付が変わるまえに眠ることなんてほとんどない。今日は屯所にいるはずだった。具合でも悪いのだろうか。
障子に手をかけ、そろりと明ける。覗いた部屋の空気は冷たく、外のように吐息が曇る。風呂や厠へ行ったにしては、人の気配があまりにも薄い。部屋も寒すぎる。
山崎、と名前を呼んだ。もちろん返る声はない。
土方は部屋の中へ入り、ぱちりと灯りをつけた。すぐに明るくなる部屋が一瞬まぶしくて目を瞑る。何かあって隠れているのかと思ったが、もちろんそんなことはない。ケーキを置いて座ってみる。部屋の中央に鎮座した炬燵の中も、ひんやりと冷たい空気が支配していた。
どうしていない、と怒るのは、土方の勝手だ。理不尽すぎる。何の約束もしていない。
時計を見る。日付が変わって山崎がひとつ年を重ねるまで、もうあと一時間しかない。
一時間の間に、山崎は帰ってくるだろうか。
土方が今日まで忙しいことを山崎は知っているし、山崎は明日から忙しい。奉公の振りをして潜入している呉服屋で、何やら用事があるらしい。忙しくなる前に、と、どこかへ遊びに行ったのだろうか。でもどこに? 沖田も原田も談話室にいた。山崎の友達なんて、土方はあの二人くらいしか知らない。
どこにいるのだろう。どうしているのだろう。連絡しようかと思い携帯に手を伸ばして、やめた。
あまりにも馬鹿らしすぎる。それに仕事でもない山崎の時間を土方が拘束する権利なんて、ないだろう。きっとない。
ないだろうか。わからない。
煙草を銜え火を点けかけたが、灰皿があまりにも遠い場所にあったのでやめた。炬燵のスイッチだけ入れて横になる。座布団を引き寄せ枕代わりにする。
本当に忙しかったのだ。疲れた。疲れたから、山崎の驚いてはしゃぐ顔でも見てやろうかと思ったのだ。祝いたい、なんて、きっと建前だ。喜ばせたいのではなくて、自分が楽しみたかっただけだ。
自分以外にも山崎の誕生日を覚えている人間がいるのかも知れない。その人間に祝われて、山崎が喜ぶのなら、本当はそれでいいじゃないか。
苛々を誤魔化すために目を閉じる。らしくない。どうかしている。ケーキを買ってきたことも、急いで帰ってきたことも、こんなに落胆していることも。
どうかしている。これだから恋は嫌なんだ。
苛々と歯ぎしりをして目を閉じる。暖房をつけるのも面倒で、部屋は寒い。炬燵の中だけ暖かい。息は白い。時間は進む。山崎は帰って来ない。
かたん、という小さな物音で目が覚めた。
「土方さん……?」
小さな声で名前を呼ばれ、ゆるゆると目を開ける。眩しい。山崎の声だ。山崎だったら問題ないだろう眠いのだ疲れているもう少し寝かせておいてくれ。
そこまで考えて思い出し、跳ね起きた。そっと近付いていたようだった山崎は、びくりと驚いて少し後ろに下がる。
「起こしちゃいましたか」
「……どこ行ってたんだよ」
すいません、と、悪くもないのに山崎は謝った。今暖房付けますね、とエアコンのスイッチを入れる。大きな音を立てて人口の温風が吐き出され始める。
「土方さんこそ。局長に、お戻りは遅くなると聞いていたので」
「どこ行ってた」
「呉服屋です、例の」
「こんな時間まで? 本格的に入るのは、明日からじゃなかったのか?」
そんなつもりはないのに、どうしても苛々とした口調になってしまう。そんな自分にますます苛立って、土方は今度こそ煙草に火をつけた。灰皿は、山崎が近くに持ってきてくれた。
「その予定でしたけど、今日の準備を最後まで手伝う代わりに、明日は休ませてもらいました。俺の目当ては本当は三日後からですし、明日入るのは店の都合にすぎなくて、それで、ええと、」
言い訳のように山崎は言って、もごもごと口を噤み、怒られる前のように恐る恐る土方の顔を伺い見る。
「……勝手をして、すみません」
「勝手をした理由は?」
土方が煙を深く吸いこんで、吐きだし、灰を灰皿に落とす間山崎はうろうろと視線をさまよわし、やはりびくびくとした様子で土方を見て、
「……怒りませんか?」
子供のようなことを言った。
「さあ?」
「……じゃあ言いません」
「言わねえと殴る」
「怒らないでくださいね」
「知るかよ。理由如何によっては怒るに決まってんだろうが」
「別にいいじゃないですか。仕事をさぼったわけじゃないし、明日から入るっていうのもそもそも俺の判断で副長はどうでもよさそうだったじゃないですか」
「うだうだうるっせえなあ。言うなら早く言え」
そう言ってもなお、山崎は、あーだのうーだの意味のない声を漏らして、それから意を決したようにぎゅっと拳を固めて、言った。
「一緒にいたかったから!」
「…………は?」
「土方さん今日までずっと忙しくてでも明日からちょっと時間に余裕が出来るって言ったじゃないですか。大きな仕事も今ないじゃないですか。暇じゃないですか」
「……で?」
「俺の、……誕生日じゃないですか」
山崎は俯いてしまって、その顔は土方から見えない。覗く耳元が少し赤い。
どんな顔をしているのだろう。
今すぐ覗きこんで笑ってやりたい。土方は口元を手で覆う。
「……何にもいらないです。何にもしてくれなくていいです。暇なんだったら飯だけでもどっか行きたいなってくらいです。仕事あるなら手伝うし、お使いだって行きます。一日一緒にいたいとか、そういうんじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
「……ただ、年明けてから土方さんずっと忙しそうだし、やっと時間できると思ったら今度は俺が忙しくなるし、俺が仕事終わって話上げて帰ってきたら土方さんまた忙しくなるでしょう? 何か、それ考えると、ちょっとなって……ちょうど、時間が重なりそうなのが俺の誕生日なんだったら、その日くらいなんとか、顔突き合わせてもいいんじゃないかって……思って……」
最後の言葉はほとんど聞こえなかった。
土方は笑いを堪えて山崎の顔を覗き込む。覗きこまれた山崎は少し泣きそうな顔をして、だって……、とまたいいわけじみた言葉を口にした。
「炬燵の上にケーキがある。食うか」
「え、」
「飯は鍋でもいいか。うまい店を知ってる。仕方ねえから奢ってやる」
「え、え、……土方さん?」
「あと、」
困ったような驚いたような泣きそうな顔をする山崎に、耐えきれず土方は噴き出した。ついでにふにゃりと開いている唇にもキスをする。
「明日じゃなくて、今日な。誕生日おめでとう山崎退クン」
驚いたように時計に目をやり、驚いたまま土方の顔をみて、それから炬燵の上のケーキ屋の箱を見つけ、山崎は、顔を赤くして、
「……わぁ…………」
言葉にならないような、小さな声をあげた。それから土方に向き直り、本当に嬉しそうな顔をして
「ありがとうございます、土方さん」
震える声でそう言って、山崎の腕が土方の首に回る。
それだけでもう、土方には満足だ。山崎の背中に手を回してやる。
仕事より優先できなくても、大事にするのは悪くない。らしくないと言われたって、お互いそうなら関係ない。
山崎には聞こえないくらいの声で、ありがとう、と小さく言った。やはり聞こえなかったのだろう。山崎は首を傾げて、土方さん? と名前を呼ぶ。それが思いのほか愛おしくて、頬を優しく撫でてやる。
出会ってくれてありがとう、と思わず言いたくなるほどだ。土方は小さく笑った。