窓に流れる水滴を内側からなぞる。つつ、と滑った指が窓にこすれて、きゅっと音を立てた。
雨の香りがする。
窓の外に広がる空は見るまでもなく灰色だ。見下ろした地上に色とりどりの傘が、花のように散らばっている。中で、傘を持たない人が走っているのも見えた。
「トシ」
声をかけられて振り向けば、少し疲れたような近藤が苦笑に近い笑みを浮かべてひらひらと手を振る。視線だけで答えた土方の隣に立ち、同じように窓の外を見下ろした。
「雨だなぁ」
「ああ」
「まいったな。やむまで帰れない」
タクシーを呼ぶ金なんかないしなぁ、と困ったように言って、きょろきょろと視線を彷徨わす先。それに気付いた土方は苦笑して、上着の内から煙草を取り出した。
視線の先にあるのは、強く恐ろしいとある女性の家のはずだった。
「やむまでここで雨宿りか?」
「そういうことになるなぁ」
彷徨わせていた視線を土方に向け、近藤は肩を竦める。運が悪い。視線だけでそう言い、近藤はくるりと背を向けた。
「どこに行く?」
「ちょっくら、とっつぁんのとこに行ってくる」
ひらひらと手を振って部屋を出て行く近藤を見送り、土方は深く吸った紫煙を吐き出した。
雨だ。よりにもよってこんなときに、お役所に呼び出されるとはなんたる不運。できることならさっさと帰りたいのに、次第に強くなる雨脚がそれを許さない。色とりどりの傘を見下ろしながらため息とともに吐き出した煙は、窓硝子を曇らせた。
早く帰りたい。
ふと浮かんだ思いに、土方は自分で驚いた。欲にまみれたこんな場所で皮肉を絶えず投げかけられているのが嬉しくないのは本当だが、今の帰りたいは、そういう意味ではなかった。帰りたい。ここから出たいというのではなく、特定の場所に戻りたいと考えた自分に呆れる。その理由にまでご丁寧に思い至ってしまったものだから、もうどうしようもなかった。
まだ残っている煙草を、携帯の灰皿に押し付けもみ消す。曇った窓をきゅっと拭って空を見る。雨はまったくやむ気配を見せはしない。
今頃何をしているだろうか。そんなことを考えてしまう自分は重症だ。いつからこんな腑抜けになったのだろうか。今この時間に、できることはいくらでもあるはずだった。念のためと思い持ってきた急ぎの資料がある。けれど到底、見る気がしない。
テメェのせいだ、と呟く。聞いていたならば大層不服そうな顔で、何でですかと言うに違いない。まったくもって小動物のようだ。思ったらふと笑みが零れた。そのことに、土方は気付かない。
雨が降って、何をしているのだろう。今日は外に出る仕事があるとは聞かなかったから、部屋の中で紙に埋もれて仕事をこなしているのか、それとも他の隊士と一緒に、茶話にでも興じているのか。
雨が降るとあなたを思い出します。
言われたことがあるそんな言葉を思い出した。雨に似てますよね、と、根拠なく言った彼は、それでは今、自分を思い出しているのだろうか。
出会ったのが雨の日だったから、雨はどうも、互いに互いを連想しやすいらしい。雨に似ていると言うが、そういうお前こそが雨のようだと、そのときはどうも言えなかった。
柔らかに悲しい雨のようだ。どうも落ち着かなくなって苛立つような。はやく晴れろと願うのに、やんでくれるなとどこかで願う。言いようのない焦燥感。胸の中の大部分を占める不安のような、けれど不安ではないもの。吐き出したくて、けれど、失いたくない。もう嫌だと思うのに心地いいとさえ感じる、焦燥感。
雨音に誘われるように想っていたら、声が聞きたくなり、自嘲した。
早く晴れろ。帰って、あの阿呆面を拝んでやろう。暇そうならば茶を淹れさせて、傍に置いて仕事でも片付けようか。
(はやくやめ。やまないのなら、)
柄でもないが濡れて帰るぞ。
そんなことを思ったとき、ぴりりとかすかな音がした。携帯の着信だと気付いてズボンから取り出したときにはすでに、音はやんでいる。
いたずらのようなそれの犯人の名前を見て、土方は口角を上げた。
着信履歴にダイヤルをする。コール音に耳をすませ、はやくしやがれ、と悪態をついた。
『……はい』
「おう、何の用だ」
平坦な声を装って尋ねれば、かすかに戸惑うような気配。
『……あの、ごめんなさい。すみません。仕事中に』
「いや、いい。どうせ雨宿りの最中だ」
『あ、そうなんですか』
ほっとした声音に苦笑する。仕事中なら折り返し電話をするわけがないではないか。
「で?」
『いや、あの……用は、ないんですけど、ね?』
恐る恐るといった言葉に、土方は笑った。無言で促し続きを待つ。緊張したような気配が伝わり、深呼吸をしているのだろうかと思う。
『……声が、聞きたかったんです』
雨はどうやらまだ止まない。
濡れて帰ると笑って決めた。