本当は何から逃げたいのかわからないけれど二人で逃げて来てしまった。
屯所を出てから一週間経つ。名目上は、休暇、ということになっている。副長と監察長がこれほどの長い期間揃って屯所を空けるのは良い行いとは当然言えない。それを分かって二人揃って出てきたのだから、逃げてきた、というのがきっと正しい。
「体に悪いから煙草も控えろって言うのに全然聞いてくれないし、マヨの摂りすぎだってよくないから低カロリーにしろって言っても全然聞いてくれないし、言われたとおり買い出しにだって行くのに機嫌が悪いとすぐ殴るし、俺が悪くないことでも俺に八つ当たりするし、すぐに殴るし、働きすぎだからちょっと休めって言っても聞いてくれないしすぐ殴るし」
「……何が言いたいんだよ」
畳の上に杯と空になった銚子が転がっている。頬と鼻を赤くして目を潤ませた山崎は、どろりとした目で土方を睨みつけ、ぱしっと平手で土方の膝を打った。
「だから!」
呂律が回っていない。酔っているのだ。叩かれるのを防ぐために握った手が、熱い。
「なんだよ。そんなに言うほど殴ってねえだろ」
「そこじゃねーよ!」
ぱしん、と空いている方の手で山崎が再び土方の膝を打って、それから悲しげに眉を下げ、土方に擦り寄って来た。酒の匂いが強くなる。
山崎は酒癖が悪い。宴席で殊更酌をして回るのはそのせいだ。人前で酒をあんま飲まないようにしてるんですよね、と本人が言うほど、悪い。弱いわけではないのだが、酔い方がよくない。
擦り寄ってきた山崎の背中に手を回してやれば、すんと鼻を鳴らしながら山崎が膝の上に乗って来た。緩く抱きしめるようにしてやれば、ぎゅう、ときつく抱きつかれる。
「おれはこんなにすきなのに、もっとやさしくしてくれてもいいとおもう」
抱きついて顔を隠すようにして呂律の回らない舌で甘えるようなことを言って、すん、と鼻を鳴らす山崎に、土方は天井を仰いだ。
目を閉じる。酒の匂いがする。目を開けて、腕の中の山崎を見る。
髪に、唇で触れた。鼻孔を擽る少し甘い匂い。
「優しくしてんじゃねーか」
「言うこと全然聞いてくれないし」
「本数減らしただろ」
「見てるときだけじゃん」
「だったらずっと見張ってろよ」
「俺を外に出すのあんただろ」
「出したくて出してるわけじゃねえよ」
髪に、耳に、首筋に。あやすように唇を落としていけば、隠されていた山崎の顔がゆるゆると上がった。赤い頬に潤んだ目。人前で酒を呑ませられない一番の理由は、これなのだけれども。
「……俺は、あんたのそばで、生きたいです。土方さん」
逃げてきたのだ。遠く、遠く。
誓ったことも忠誠も、義務も使命も忘れられる場所まで。
熱を持った頬に手を当ててやれば、冷たさが気持ち良いのか山崎がうっとりと眼を閉じる。瞼に唇で触れ、頬に触れ、唇に触れれば少し酒の味がした。
髪を撫でてやる。目を開けた山崎が嬉しそうに目を細めて、土方の胸に擦り寄る。抱き寄せてやれば抱きつく力が強くなる。
「すきです。すき、好き、大好きです。土方さん。あんたのためだったら何だってするけど、どうなったっていいけど、でも、やっぱり、そばにいたいなぁ。ねえ、すきです。だいすきなんですよ。知ってますか?」
着物が少し冷たくなったのは、山崎の涙が滲んだからだ。
耳朶に触れ、頬にくちづけ、顔をあげさせる。困ったような顔の山崎の目に薄く涙が滲んでいる。これは酒のせいだろうか?
目尻を拭ってやれば、山崎は泣き笑いのような顔をした。
笑みを返してやって、頭を引き寄せる。耳元に口づけて、
「知ってるよ。好きだ」
言った。土方の言葉に山崎は少し体を揺らして、それから、小さく笑った。
くすくすと押し殺すように笑って、
「明日の朝に、帰りましょうね」
小さな小さな声で、そう言った。
縋りつくように土方の着物を握っている山崎の手を取って、掌に口づけて、指先に口づける。
「悲しいか」
聞けば、
「こわいです。あんたが俺に、優しいから」
優しくしろと言った癖に困った顔でそんなことを言って、へらりと山崎が緩い笑みを浮かべる。薄く開いた唇に口づけて、甘やかすように髪を撫でた。山崎の熱を持った指が首に触れる。絡める舌が、熱い。酒精が移って酩酊しそうだ。
好きだと囁いた言葉は声にならなかった。
危険な目にあわしたくない、とは、こんな遠くに逃げてきて尚、言葉にすらならなかった。