とうに春は来たというのに、見上げたその木に花がない。今年の桜が、まだ咲かない。咲かないのかと思えば時折街から外れた細道の脇などに、桜色の花を見かけたりする。梅はとうに咲ききって、椿はその首を落としている。けれど桜は。馴染みの木に、花はまだ咲かないようだった。
ざあ、と風が吹き、乱れた髪を苛立たしく思いながらかき上げた。桜の花が咲いていればきっと、この風に攫われて花びらがひらひら舞うに違いない。
上着の隠しに手を入れて、煙草がないことに舌打ちをした。
「副長?」
隣で、同じように桜の木を見上げていた山崎が首を傾げる。煙草がないと言えば、禁煙してくださいと眉を顰められた。
「さくら……咲きませんねぇ…」
残念そうに呟く山崎に、ああ、と返す。
「お花見、できませんね」
「そうだな」
「残念だなぁ……」
今度こそはっきりと言葉にして、本当に残念そうに、桜の木を見上げている。凝視したからといって桜が咲いてくれるわけでもないだろうと思いながら、同じように未練がましく枝の先を見つめている自分に気付いて苦笑した。
紫煙の代わりにため息をつき、腰を下ろして幹に背を預ける。山崎は目をぱちくりとさせ、隣にしゃがみこんで小首を傾げた。この仕草はやめさせなければいけないと何度も思うのだが、言って聞くような奴ではないし、理由を問われても困るので、結局そのままにしている。さらりと肩に流れた黒髪が、ふわりと優しく風に遊ばれていた。
「土方さん?帰らないんですか?」
「そうだなぁ…」
曖昧に答えて、風から黒髪を取り戻す。つんと引っ張れば、山崎はわざとらしく拗ねてみせる。そのまま頬に指を滑らせ、文句の出る前に軽く唇を奪った。
「……どうしたんですか」
唇を離しただけの至近距離で、山崎が困ったように尋ねる。かかる吐息に誘われるようにもう一度唇に触れれば、すとんと隣に膝をついて、そろりと袖を引かれたのがわかった。
唇を離し顔を覗き込めば、恥らうように睫を伏せる。いつもは奪う口吻けばかりで、啄ばむような口吻というのは、滅多にしたことがなかった。慣れず恥らう山崎にくくっと喉の奥で笑えば、睨むように視線を寄越す。それが逆効果だとは、とりあえず知らなくていい。
体を離して髪に触れる。くすぐったそうに山崎は笑う。その向こうに咲かない桜の木々がある。ふわりと風は暖かい。それでも桜がまだ咲かない。寂しげにさえ見える枝の先に、鳥が止まり、飛んでいった。
香る空気は春なのに、視界を埋める花がない。
感じる気配は春なのに、心を奪う桜がない。
その不安定さに突如として襲われたのだ。気付けば離した体を再度引き寄せて、きつくきつく抱きしめていた。
「……土方、さん?」
戸惑ったような声が耳元で響く。細い体が腕の中で反る。このまま壊してしまうかとようやくそれに思い至って、込めていた力を抜いた。
それでも離れがたく、抱きしめたままでいる。これはまったく自分らしくない。いつだって、今までの形をコイツは壊して攫っていくのだと、悔しい思いがした。いつだって、自嘲してばかりなのだ。知らなかった思いに気付かされ、知りたくなかった自分を知って。
「……どうしたんですか?」
ゆっくりと問う山崎の首筋に唇で触れる。小さく吐息を吐いた山崎は、しかし体を離さなかった。身じろぎひとつせず、おとなしく腕の中に納まっている。
「何でもねぇよ」
「でも、」
「何でもねぇ」
語調を強めて言えば、山崎は口を噤んだ。それでも、背中に小さく爪を立てられて、詰られているのを感じる。だったらどうして、と問われているようで、けれどその答えを、持っていないのだから答えようがない。
躊躇いながら腕を離し、唇に唇を落とす。開く唇に誘われて深く奪えば、無言の抗議とは別に、背中に回されていた腕に力を込められた。小さく上がる声さえも奪ってしまおうと、深く深く追い立てる。
「んっ……」
呼吸の合間に一際大きく響いた声に、背中を何かが駆け上がった。唇を離せば、涙の溜まった瞳で山崎がこちらを見ている。
(…………仕方ねぇな)
俺もお前も。思って、ぽんと軽く背中を叩いた。
「帰るか」
「そうですね……」
濡れた唇を袖で拭って、山崎がふわりと微笑む。もう一度、桜の木を見上げて、ゆっくりと目を細めた。
「……――――――……のに……」
「あ?」
聞き取れなかった言葉を聞き返すと、山崎は微笑んで、言うのだった。
「咲かなければ、いいのに」
春の。風は胸を焼くのに、呼吸を止める桜が、咲かないのならば。
咲かなければいいじゃないか。不安定な、この春に。
ふたりで閉じ込められたいと、そう。