いつも聞こえている声が聞こえないだけでこんなにも違うものなのかと自分自身に呆れ返った。常に、響いていた声ではないように思うのに。食堂で雑談をしている隊士の間や、廊下をばたばたと駆けていく沖田の傍に、彼がいないことが。するりと襖を開けて遠慮がちに、覗く視線のないことが。食事のときにふと交わった視線に、照れたような嬉しいようなそんな顔で笑う、彼がいないことが。
何故だかひどくおかしなことのようで、加えていた煙草を噛んだ。
彼が任務に赴いてから、今日で半月になるのだった。
「そんな顔するくらいなら、最初っから山崎に行かせなきゃいいんでさァ」
勝手に持ち込んだ饅頭を、勝手に淹れたお茶のお供にと食べながら、沖田は呆れたように言った。
「空気が悪くなっていけねェや」
「アイツじゃなきゃ任せられねー仕事なんだよ」
「じゃあもう少し、せめて上っ面だけでもにこにこしてたらどうですかい? あ、にこにこしてる土方さんなんて気持ち悪いか。仕事どころじゃなくなっちまう」
「どういう意味だおいコラ」
どういうって、そのまんまの意味ですぜ。そう言って立ち上がった沖田は、饅頭を行儀悪く口にくわえたまま部屋を出て行く。開けた襖を閉める直前、饅頭を口から離して土方を見た。
「どうでもいいですが、せめてその不機嫌全開オーラをどうにかしてくだせェや。隊士がびびって困る」
不機嫌オーラ全開とは何なんだと言い返すよりも先に、ぴしゃりと襖は閉まった。お茶を飲み干した湯飲みと、急須に残っている冷めたお茶。ひとつだけ残った饅頭を見て、土方は溜息をつく。苛々と。自分に対して。
もう半月になる、と考えて、まだ半月かと自嘲した。
今回の任務は少し長丁場になるということは、最初から分かっていたことだった。それだけの任務だったし、だからこそ山崎を向かわせた。命の危険はないはずだ、と考えて、もう一度溜息をつく。命の危険があるかないかを考えて部下を送り出していたのでは仕事にならないではないか。何を考えているんだ、自分は。
溜息をつくと幸せが逃げるんですって。何かのついでにそう言っていた彼の声が蘇って、眉根を寄せた。誰のせいで溜息をついていると思っているのだ。土方が当てつけでなく溜息を吐く理由はそうそう多いわけではなく、そしてその少ない理由の筆頭に上がっているのは、間違いなく彼だったろう。
もうすっかり冷めた茶を自分の湯飲みに注いで飲む。まずさに顔をしかめる。茶汲みを頼むと自分は小姓ではないと文句を言うくせに、その辺の小姓よりはよほど上手に茶を淹れるのだ、彼は。そしてちゃっかり自分も飲む。
ああ、思い出してばかりだ。何だこれは。
いつから自分はこんなに腑抜けになったのだと苛々しながら、机に広げられた書類に目を通した。几帳面な彼の字で綴られた報告書。丁寧に細部まで、こちらの知りたいことを的確に読みぬいて作られたそれ にふっと零れた笑みを土方は知らない。
同時に覚えた胸を痛みは、故意に知らない振りをした。
*
「……だいぶ遅くなっちゃったな」
本当はもう少しはやく切り上げるつもりだったのに。意外なところで意外な事実を知ってしまったものだから、深追いをしてしまった。お陰で、予定していたよりも長く時間がかかってしまったように思う。その代わり、得たものも増えた。これで残りの動きは一気に早くなるだろう。あとは調べ上げたことをまとめて、上司に提出すれば今回の任務は完了だ。
その、書類を提出するはずの上司の顔を思い浮かべて、山崎は小さく溜息をついた。
仕事中は脳裏の隅にも浮かばなかったその姿を、一度思い浮かべてしまうとなにやら止まらなくなってしまう。幾日会っていないのかと考えて、たった二週間だということに笑ってしまう。
たった半月でもう耐え難い。集中力のある自分でよかった。少なくとも仕事中は、思い出さなくてすむ。
ではあの人は、と思って、首を振った。まさか、たった半月会えないくらいで何か思うとも思えない。今の自分は彼の下した命令によって動いているのだし、そもそも、寂しいだとか会いたいだとか、思うような状況ではない。
「……さっさと帰ろう」
はやく、報告をまとめて。帰って、お茶の一杯でも飲もう。その合間に盗み見る顔に、少しでも会えなかった間の何かが、見つけられればいいのだけれど。
(無理だろうなぁ……)
想像してみたが、どうにも。
「女々しすぎる…」
呟いて、首を振った。溜息を飲み込んで、ふと空に目をやる。
自分はどんどん駄目になっていくのだと、嘆くでもなくそう思った。
胸がつきりと痛むので、唇を噛んでやりすごす。
噛んだ唇は痛々しいと、あの人はいつも、不機嫌に口付けをするのだ。