「絶対イヤです!」
「何でだよ」
「いや、なんでとかじゃなくて意味わかんないんスけど」
「意味はわかるだろ別に」
「とにかく絶対イヤですから! つーか無理!」
「無理じゃねーよ、試しに呼んでみろって」
「いやいやいや、いいです遠慮します。呼べなくても困らないんで」
「困るだろうが、お前結婚したらお前も土方になんだぞ」
「できねェよ! バカか!」
山崎の投げた座布団を当然ながら身軽に避け、土方は深くため息をついた。
「そんなに嫌がることかね」
「イヤです。ていうか無理ですってば」
「無理じゃねーってば。ちょっとやってみろよ」
「いいですやらないです。ていうか、別に、……」
「別に、何だよ」
「……別に、いいじゃないですか。別に、土方さんでも」
「……いいとか悪いとかいう話じゃねーんだけどな」
指先で弄ぶだけだった煙草にようやく火をつけ、それを深く吸い込む土方をちらりと見て山崎はわずかに眉を顰める。煙草を吸う姿は絵になるし、部屋にも衣服にも染み付いた煙草の香りはけっして嫌いではないが、目の前の人の身体を考えると切実にやめて欲しい。
「あのね。俺がね、どんな気持ちで土方さんって呼んでるか知ってますか」
少し真面目な声音でそう問うた山崎をちらりと一瞥だけして、土方は煙草をふかし続ける。
「知らねェな」
素っ気無い土方に少しばかり心を痛めつつ、
「すごく、嬉しいなあって、思ってんですけど」
「…………はァ?」
何だそりゃ、と言わんばかりに目を見開いてこちらを見た土方に、またも山崎の心はツキリと痛む。この人は、自分が好きだと言うばかりで、こちらの気持ちを一度でも考えたことがあるのだろうか。こちらも好きでいるのを良いことに、いつも勝手だ。
「そんな俺の気持ちなんか、知らないでしょう」
ふくちょう、と呼ぶのが好きだった。仕事の話でも何でも、いつでもどこでも自然に呼ぶことのできるその呼び名が好きだった。副長、と呼んで、何だどうしたと振り向いてくれるのがわけもなく嬉しかった。この人の傍で働けているのだということが、たまらなく誇りだった。
土方さん、と呼ぶのは、好きだとかそういうのではなくて、どうしようもなく幸せだった。いつも背中を見ていた人が隣に並んでくれた気がして、背中を見るのも好きだけど隣もいいなァと幸せな気分でいっぱいだった。土方さん、という呼びかけに、少しだけ照れながら何だどうしたと問われることが、たまらなく幸福だった。
副長、と呼ぶことしかできない自分が、土方さん、と呼べる立場に在ることが。
噛み締めるように名前を呼べば、小さく苦笑してもらえることが。
部屋で小さく呼んでいた名前を今は直接呼べることが。
幸せで、嬉しくて、大切にしたくて。
ずっと呼んでいたくて。
「嬉しい? なんだよ、それ」
「土方さんは、副長は、いつだって自分のことばっかりだ」
こんな責めるような言い方がしたい訳では山崎もなかった。そんな言い方をするほどのことでもないはずだった。けれど、
「どういう意味だァ、それ」
「自分のしたいことばっかりで、俺がどんな気持ちなのか考えてくれたことなんて、ッ」
ぱしん、と耳の近くで音がした。
「誰が誰のこと考えてねェんだ、テメェふざけんなよ」
射抜くような、目で見られた。土方がどうして、泣きそうな目でこちらを射抜くのか、頬を打たれた山崎には分からなかった。
こんな、ことのはずではなかった。こんな、喧嘩になるようなことではなかったはずだった。結局今こんな気まずい沈黙が小さな部屋を満たしているのは自分の強情のせいだと、山崎にも分かっていた。
けれど、傷ついてしまったのだ。
勝手に拗ねて、こちらの言い分を聞こうとしないで、こちらをきちんと見ようともしない土方の態度に傷ついてしまったのだ。そんなことで傷つく自分が、イヤでイヤでたまらなかったのだ。どうして、と問うてもらえないことも、言い分を真面目に聞いてもらえないことも、何でだかたまらず悲しくて、余計なことを言ってしまった。
そして傷つけた。それも分かっていた。
部屋には、沈黙だけが落ちている。打たれた山崎の頬は微かに赤くなっている。いっそ思いっきり殴られたらよかったなァと思っている山崎に背を向けて、土方は寝転がっている。その姿は拗ねているようで傷ついているようで、怒っているようで、ますます山崎の後悔を深くする。
こんなはずではなかった。
それでも部屋を出て行こうとしない自分はどこまでも滑稽だ。我侭をぶつけられ、叩かれても、傍を離れたくないと思う自分は病気だ。
名前を呼んで欲しいと、愛しい人が言った。それだけなのに。
名前など、呼んでしまえば、愛しさと恥ずかしさが溢れてどうにかなると、そう思っただけなのに。
勝手に拗ねて勝手に傷ついている目の前の人は、知らないのだ。副長と呼ぶのが好きで、土方さんと目を見て呼ぶには多少なりともまだ勇気が必要で、それで振り向かれるだけでも幸せすぎて押しつぶされそうなのに。
名前を呼んで微笑まれた日には心臓などもちそうにないと山崎が懸念していることなど、この人は知らないのだ。
つ、と膝を進めて少し近づく。背を向けている人は、起きているのか寝ているのか定かではない。
何か言われたらすぐに逃げてやろうと退路を確認して、すう、と息を吸い込む。
寝ていて欲しいと思ったが、起きているなら、
「とおしろうさんのばか」
起きているなら笑ってないで、抱きしめてお願いだからこの赤くなった顔を隠してはくれないだろうか。