もしも時間が巻き戻せるとしたら、僕は迷わず、あの子供を拾った日まで戻るでしょう。あそこから全てが間違ったのだ、という気が、最初からずっとしています。
僕はあの頃、生きる意味を失い、かといって死ぬことも出来ずに、まったく怠惰に日々を過ごしていました。ざわざわと血が騒ぐので天人を斬りました。要人の癖に僕などに斬られるくらい一人でふらふらとしているのが悪いのだ。だから斬りました。僕はすぐに指名手配をされ、テロリストになりました。思えば、最初に刀を握ったときから僕は犯罪者だったのでしょう。政府から見ればそうだったでしょう。そして、僕が刀を握ったときから世界の正義は政府でした。何より世界を大切にしていた、命の尊さを知っていた、先生だって、悪でした。
僕は最初から悪人でしたので、今更テロリストと呼ばれようと、問題はありませんでした。ただ少し、違和感がありました。自分の理想のために、国を守るために、刀を握った者たちを打ち首にして晒し物にして、自分たちは安全な場所で笑っている、お前たちは何だ。間違っていると思いました。この世界は腐敗してしまったのだと思った。正義と悪が、まったく反対になってしまったのです。それならばきっと、僕にとって先生にとって仲間にとって、正しいことは悪なのだ。この世界の正義はきっと間違っているのだ。心優しい先生を殺し、理想の高い若者を殺し、人語を解す化け物に媚びて、それでぬくぬくと生きているものは、どうしたって、間違っているのだ。
僕は血がざわめくままに天人を斬りました。人が護衛であることがあったので、人も斬りました。どちらの血も赤いので、僕にとってはどちらも一緒でした。何を殺しても自分は悪なのだ。悪こそが正しいのだ。この世界を壊し尽くして、それからもう一度、誰か、美しい世界を作ってくれればいいのだ。それが僕の理想であり、願いでした。
それだけ持って生きていました。それ以外の生きる意味はどこにもなかったし、かといって、死ぬこともできませんでした。喉の渇きを潤すように誰かを殺して、それだけで、まったく怠惰に過ごしていました。
あの子供を拾ったのは、ちょうどそんなときでした。
死ぬことができないので生きている僕と違って、あの子は、生きることに懸命でした。今日生きるために昨日の恩人を平気で騙し、それを悪いとも思っていないようでした。
僕はあの子が人を騙すのを四度見ました。最初は優しそうな老婆を騙していました。次は金持ちそうな男を騙していました。その次は子連れの親子でした。その次は善良そうな女でした。彼の笑顔は醜悪でした。目を細め頬を緩ませ口角を上げて笑う、その笑顔に誰もが騙されていましたが、僕にはそれがひどく醜く見えました。目が笑っていない、というのとは、また少し違う。笑っているのです。一分の隙もなく笑っているのに、そこにちっとも心が入っていないのです。事実、彼は人を騙し金を手にした後は、浮かべていた笑みを瞬時に消し、暗い、陰鬱な表情を浮かべ、濁ったような目に景色を映しながらふらふらと歩くのでした。あれほど気味が悪いものを僕は見たことがありませんでした。
僕はその時も決して定住と言える住処を持ってはおりませんでしたが、街をふらふらと歩けば決まって彼と出会ったのでした。
五度目、彼と出会ったとき、彼は血の中にいました。
夜でした。月の半分欠けた夜でした。曇ってもいましたので、辺りはひどく暗かった。街灯も少ない街のはずれで、彼は血の中に立っていました。
右手には刀がありました。それは血に濡れていました。彼の手も、顔も、髪も、赤く染まっていて、それを出来損ないの月が薄く照らしていました。僕は彼に近づきました。血の匂いは、僕にとって馴染み深いものでしたので、恐ろしいとか、気味が悪いとか、そういうことはありませんでした。そのときは彼を、醜いとも、あまり思いませんでした。いつものように嘘くさい笑みを浮かべていなかったからかも知れません。
僕が近付くのにも気づかず、彼は呆然と立っていました。引き攣った頬が濡れているかと疑いましたが、そこには死体の残した血液以外、何も付着してはいませんでした。
「お前」。僕は声をかけました。彼は顔をゆっくりと上げ、それから僕を見つめました。彼の唇がひどく渇いていたのを、今でもなぜか、はっきりと覚えています。濁っていると思っていた眼は、向けられて見れば存外澄んでいました。
「殺したのか」。僕は聞きました。彼はその言葉を咀嚼するようにしばらくじっとしていて、それから、「あ」小さな声を出しました。吐息のようなそれでした。思っていたよりずっと、高い声でした。子供の声でした。「ああ、本当だ。殺しちゃった」。どうしよう。彼は呟きました。握った刀を見下ろして、転がる死体を見下ろして、ひい、ふう、とそれを数え出しました。みっつ。そこにあるのは三つの死体でした。数えるまでもない数字です。けれど、数えなければ、きっとすぐにはわからなかった。腕も足もちぎれて、もう、どれがどれやら、わからなくなっていたのです。ひい、ふう、みい。どれも大人でした。そこで僕は初めて、彼の着物が荒らされているのに気付きました。細すぎる足はむき出しになっており、白い肩はむき出しになっていました。
僕は納得しました。突然この子供が可哀想になりました。「一緒に来るか」。思わず口にしていました。彼は驚いた顔で僕を見て、それから自分の手の中の刀を見て、僕を見て、それをもう一度繰り返して、それから泣きそうな顔で、僕の顔を見つめました。
「いいの?」。その唇がそう動きました。声は出ませんでした。僕は答えず彼に手を伸ばしました。彼は、血で汚れた手を、僕の手の上にそっと置きました。
震えていたので握りました。手を引けば大人しくついてきました。
それが間違いだったのです。逃げてくれればよかった。
もしくは、他の誰かにそうしたように、騙してくれればよかったのだ。
僕は彼を連れ帰り、全てを彼に与えました。彼は逃げませんでした。
それが間違いだったのです。
間違いだったという気が、ずっと、ずっと、しているのです。