伊東先生は少し潔癖症の気がある。
 神経質、と言った方が適切かも知れない。伊東先生の中にはいくつかの明確なルールがあって、それを犯す者を極端に嫌う。トラウマ、というものがあるのかも知れない。俺には良く分からない。
 夜の事が終わった後には必ず体をしっかりと清めて、きちんと寝巻きを着て寝る、というのもそのルールのひとつだ。けっして、汚れた体をそのままに伏せるということはないし、少し拭いただけで済ませて裸体のまま眠る、ということもない。痕跡を全て消し去って、何事もなかったかのように振舞うのがルールのようだ。
 けれどそれは先生自身にのみ適応されるもののようで、俺がその隣で裸のままでいたからと言って、何か文句を言ったりはしない。ただ、少し嫌な顔をされる。
 俺はなるべく痕跡を残したまま、それを先生の目に焼き付けておいてやりたいのだけれど、先生はだからあまり俺を見ない。最中もあまり見ない。目を瞑っていることが多い。その瞼の裏に何が映っているのかは、俺には知る術はない。
「伊東先生」
 房事の後の呼びかけを、先生は嫌う。俺の声が醜く掠れているからだ。最中に声を出すのも、あまり良い顔をしない。なので俺は殊更声を出すようにしている。気持ち悪い声に耐えかねて、こんなことやめてくれればいいのにと思っている。
「もうすぐ江戸だよ、篠原君」
 しかしこのときは珍しく、応えが帰ってきた。しかも、声が少し弾んでいる。
「もうすぐ江戸だ」
 繰り返して、ふふ、と嬉しそうに笑った。俺に笑いかけたのではなくて、ただ、虚空に向かって笑っただけで、俺は別に居ようが居まいがどうでもよかっただろう。けれど俺は、珍しく伊東先生が言葉を返してくれて、笑っている、という事象が、どうしようもなくうれしい。
「今度こそ、僕の真価をあいつらに認めさせることができるだろう。全てが試されるときだ、篠原くん。真選組は僕のものになる」
 それに何の意味があるのですか、と聞けば、嫌な顔をされた。それから先生は俺をちらりと見て眉間の皺を深くし、「君には理解できない」と切り捨てた。
 先生は、気分が高揚すると何度も同じ事を言った。自分がいかに理解されなかったか、自分がいかにひとりだったか。そして決まって、真選組を手中に収めることを夢見て口にした。俺にはその意味が、よく理解できない。真意を問えば切り捨てられた。君では駄目だ、と暗に言われているようだった。
 今あなたの傍に付いて、そして、こうしてあなたの理想に耳を傾ける人間が、いるじゃあないですか。俺だけでなく、幾人も、いるじゃないですか。組を乗っ取れるくらいいるのなら、それでいいじゃあないですか。既存のものを壊さなくても、あなたがいれば、それで成り立つ何かがあるじゃないですか。
 言っても無駄だろうから、思うことを俺は言わないでいる。先生は夢を見ているのだ。子供のようにまっすぐ夢を見て、その甘美な夢を、度々俺に語って聞かせるのが楽しいのだ。
 俺はそのためだけにいるのだ。自分の体を見下ろした。貧相で、当然色気もなく、青白いいやな体だった。精液で汚れていたが、それは俺のだろうか。先生のだろうか。わからない。いい加減始末をしなければ追い出されるかも知れないと思って、ようやく懐紙に手を伸ばした。
「篠原君」
 耳に心地よい声で先生が俺の名前を呼んだ。
「君は何をしているんだ」
「あ、すいません。今始末を、」
「そうじゃない」
 少し、声が苛立つ。
「夜はまだ寒いんだ。風邪をひくだろう」
 体に付着した精液を無造作に拭いていた俺の腕をぐっと掴んで、伊東先生が俺の体を引き寄せた。ぐらつく体に着物を羽織らせられ、子供にするように腕を袖に通される。
「先生?」
「見ていて寒いんだ」
「あ、すいません」
「いつまでもそんな格好をしているものではない」
「すいません」
「……まあ、いい。もう遅いんだ。寝なさい」
 帯を簡単に結んでいた先生の手がするりと離れる。
 それが少し寂しいな、と思ったが、そんなことをここで言っても意味がないので、小さく頭を下げるだけにした。
「失礼しました。おやすみなさい」
 与えられた自室に戻ろうと立ち上がりかけると、
「篠原君」
 少し厳しい声で呼びかけられた。
「どこへ行く」
「部屋に、戻ろうかと……」
「もう遅いと言っただろう。今廊下をばたばた歩けば、他の者の迷惑になるだろう」
「はあ」
 気配を殺すのは職業柄得意だ。そうでなくても、深夜に足音を響かせることなどしない。
 そう反論してもいいものかどうか迷っていれば、先生はやはり苛立ったように、
「ここで眠りなさい」
 言って、それから寝返りを打って俺から顔を背けた。
「よろしいのですか?」
 答えはない。先生が振り向く気配もない。
 おずおずと布団に膝を付けば、先生が少しだけ体を横にずらした。一人分、どうにか眠れるかというくらいのスペースが布団に空く。
 大き目の良い布団だから、眠れないことはないだろう。けれど、俺がここに寝てしまえば、先生はきっと自由に寝られない。そうでなくても先生は潔癖症なのだ。自分のテリトリーに不用意に他人が踏み込むことを許さない。
「何を、しているんだ」
 逡巡している俺に、背中越しに急かすような声がかかった。
「先生」
「……何だ」
「うれしい、と、思ってもいいでしょうか」
 押し黙るような沈黙が一瞬場を支配して、それから伊東先生は「君の感情にまで責任は持てない」といつもの冷たい声で言った。
「はい」
 ならば、勝手にうれしいと思っても、いいだろう。
 空いたスペースにするりと体を滑り込ませて、なるべく邪魔をせずすむように体を縮こまらせた。先生は振り向かない。ただ、距離がとても近い。抱かれているときよりも気恥ずかしい距離だ。
 こうして夜を共にするのは、お互いがその方が都合がいいからだ。女を抱くのは面倒だと先生が言うからだ。悪いことではないので俺はそれに付き合っている。一応、そういうことになっている。
 だからここで、もう一度、と言ったら、やはり嫌な顔をされるだろうか。
 それとも手を、伸ばしてくれるだろうか。
 考えている。口には出さないまま、想像だけしている。
 もし次があったらその時は、先生が嫌がらないように、声を少し我慢してみようかと思う。先生が嫌がらないように、終わった後は声をかけずにいようと思う。
 そうしたら先生はどうするだろう。いつもと違うことに気づいて、それを少し、嫌がってくれればいいのだけれど。
 江戸に付くにはまだ時間がかかる。それまでには、少しでも、何か。

      (08.12.11)